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--- 正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む ---
第三章 正本堂の誑惑を破す
一期弘法付嘱書の「国主」を曲会
国立域壇を否定するには、一期弘法付嘱書の「国主」の意義を歪曲しなければならぬ。
そこで細井管長は、この「国主」について“世間儀典的と出世間内感的の二方面から考えられる”として次のように云っている。
(「世間儀典的」なる惑義 )
「世間儀典的に考えますと、--- 我が宗では真実をいうと、古来から広宣流布の時の国王は転輪聖王である。しかも転輪聖王の内の最高の金輪聖王である、金の転輪聖王である。こう相伝しておるのでこざいます。皆様、それを忘れておるかも知れませんが、既に昔からそういうことを相伝しておる。しかし、明治時代以後、それを忘却しておる人が多くなったのでございます。
--- だから、実際に広宣流布した暁の、国主が天皇だとか、或いは、我々の人民の支配者だと、即座に決定するということは難しい。もっと大きな大理想のもとの転輪聖王を求めておる。
で教行証御書の終りの方に、三行目に『已に地涌の大菩薩・上行出でさせ給いぬ結要の大法亦弘まらせ給うべし、日本・漠土・万国の一切衆生は金輪聖王の出現の先兆の優曇華に値えるなるべし』 こう説かれております。大聖人様が出現して、いよいよ広宣流布になる時には、この金輪王が出現するんだ。その為に、大聖人様がこうこうしておられるのは、金輪聖王の出現のためのお祝いの、優曇華の華に値えるが如くであるということをおっしゃっております。だからこれらを見ても大聖人様の考えは広布の時には金輪聖王が出現するのである。そして戒壇を建立する」(大日蓮47年5月号)と。
細井管長は、天皇が「国主」であることを否定するためにこれを云い出したのである。
しかし、もし“広宣流布の時には大威徳の帝王たる金輪聖王が出現して戒壇を建立する”というのなら、なぜその出現を待って戒壇を建立しないのか。あわてて正本堂などを立てる必要などさらさらないではないか。これ矛盾の第一である。
また、広布の時に金輪聖王が出現することの文証として教行証御書を引いているが、これまた文意の歪曲である。
「金輪聖王の出現の先兆の優曇華に値えるなるべし」の御文は、仏の出現には値い難いことを表わす譬喩にすぎない。優曇華は、金輪王出現の瑞兆として三千年に一度海中に開くといわれる伝説上の華であるが、経文にはこの優曇華の譬喩が随所に説かれている。
法華経方便品にも「諸仏、世に興出すること懸遠にして値遇すること難し、たとい世に出ずるとも、この法を説くことまた難し、無量無数劫にこの法を開くことまた難し、能くこの法を聴く者、この人またまた難し。たとえば優曇華は一切愛楽し天人の希有にする所にして、時時に乃し一たび出ずるがごとし」と。
いま大聖人は教行証御書において、上行菩薩出現して三大秘法を弘めるという久遠元初以来の重大事を、“一閻浮提の一切衆生は値いがたき優曇華に値うの思いを懐くべし”と御教示下されたのであって、“広布の時には金輪聖王が出現する”などと仰せになっているのでは全くない。
曲会もほどほどにしなければいけない。
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