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--- 正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む ---
第三章 正本堂の誑惑を破す
(「出世間内感的」なる惑義 )
さらに細井管長は云う。
「出世間内感的に考えていくと --- その金輪聖王は結局誰かといえば、御義口伝に『本地身の仏とは此文を習うなり、祖とは法界の異名なり、此れは方便品の相性体の三如是を祖と云うなり、此の三如是より外に転輪聖王之れ無きなり、転輪とは生住異減なり、聖王とは心法なり、此の三如是は三世の諸仏の父母なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は三世の諸仏の父母にして、其祖転輪聖王なり
--- 』と、こう仰せになっております。
即ち結局は金銀銅鉄の輪王は、我等大聖人の弟子檀那の南無妙法蓮華経を唱え奉る者の当体である、というべきであります。
故に出世間内感的に於ける戒壇建立の相を論ずるならば、三秘抄の王法仏法等のお言葉は、大聖人の弟子檀那の南無妙法蓮華経の信心を離れては存在しないのであります。
我等、弟子檀那の末法に南無妙法蓮華経と修行する行者の己心にある有徳王、常徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を其のまま以て末法濁悪の未来に移さん時、と申されたと拝すべきであります」と。
ごまかそうとしているから、まことにわかりにくい。まず細井管長は“広宣流布の時に出現する金輪聖王とは我ら弟子檀那である”とこじつけようとして御義口伝を引いているが、またまたこれ不便の引証・文意の歪曲である。
この御文の意を日霑上人釈されて云く「この文、眼を留めて拝すべし。転輪聖王の一切衆生の本祖たるごとく、宗祖大聖人もまたこれ三世の諸仏の本祖たること、文に在って顕然なり」と。
まさに御義口伝のこの文は、大聖人が三世諸仏の主師親にてましますことを御指南下されたもので、「転輪聖王」とは、そのことを理解せしむる譬喩にすぎないのである。
さて、意味不明瞭の細井管長のいわんとするところを、阿部教学部長は次のごとく会通している。「信心内感的(即ち出世間法の信感)からいえば、正法を受持する民衆との意と承る」(悪書T)と。
細井管長もまた後日次のように云っている。「現今は、我が国の憲法において、主権在民と定められている以上、本門の戒壇が民衆のカによって建立されておっても、少しも不思議はないのであります。あえて天皇の意志による国立が無ければならないという理由はないのであります。一期弘法抄の『国主此の法を立てらるれば』とは、現今においては、多くの民衆が、この大聖人の仏法を信受し、信行することであり、そして本門寺の戒壇を建立することを御命じになったと解釈して差し支えないと思うのであります」(大日蓮49年11月号)と。
さらに阿部教学部長も云う。「一期弘法抄の『国主』とは、日達上人の御指南の如く、現在は主権在民の上から民衆と見るべきである」(日蓮正宗要義)と。
要するに細井管長も阿部教学部長も、“国主とは民衆である”といっているのである。
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