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--- 正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む ---
第三章 正本堂の誑惑を破す
( 「冥合」の語義を歪曲 )
次に「冥合」について、阿部教学部長は次のように云う。
「生命の奥深い所で合一するということで、仏法がそのまま生の形で王法にあらわれてくることではない。それは、仏法が仏法の使命に生き、王法がその理想実現に専心していくとき、結果として自然に冥合するということなのである。
したがって今日、王仏冥合と政教分離とが抵触するものでないことは明白である。いずれにせよ、かかる冥合の文意において国立なる趣旨は全く見出し得ない」(悪書T)と。
全く涙ぐましい歪曲ぶりである。「王法仏法に冥じ --- 」の正意は、国家が日蓮大聖人の仏法を根本の指導原理として尊崇守護することである。
しかしこのように正しく解釈すれば、憲法の政教分離の規定に抵触する。これを恐れて憲法に合わせて御金言を曲げれば、阿部教学部長の解釈となるというわけである。
しかしいかにも無道心である。宗務院は学会が白といえば白、黒といえば黒と追従(ついしょう)するだけなのである。
曽て学会が“王仏冥合・国立戒壇のための選挙”と叫んでいた時には、宗門の機関誌は「王仏冥合の実現をめざして」などの特集を組み「国家を救う道は、邪宗邪義を倒して正法を立てる以外にはないのである。王仏冥合実現のために、参院選にのぞむ創価学会の政治家を、われわれ日蓮正宗の信徒はこぞって力を合わせ勝利へみちびきたい。---
平和楽土の建設は、日蓮大聖人の大理想なのであり、その実現は、国立戒壇という王仏冥合の姿においてなされる」(大日蓮37年6月号)と云っていたではないか。
ところが学会が国立戒壇を捨てるや、たちまち「かかる冥合の文意において国立なる趣旨は全く見出し得ない」と豹変(ひょうへん)する。
この無節操さ、恥ずかしいとは思わぬか。
しかし誑惑というのは、弘法の「面門俄かに開いて」の故事のように、必ず馬脚を露わすものである。
阿部教学部長は「仏法が仏法の使命に生き、王法がその理想実現に専心していくとき、結果として自然と冥合する」というごまかし解釈を正当化そうと、減劫御書を引いて、次のように云ったものである。
「減劫御書に『智者とは世間の法より外に仏法を行(ぎょう)ず ---』との仰せがある。--- したがって、智者というのは、世間の法よりほかに仏法を行じているのである。『世間の法より外に』ということは、世間の法は世間の法として行じ、その根底に仏法を行じているということである」と。
これはいったいどうしたことか。御書を読み違えて正反対の解釈をしているではないか。「世間の法より外に仏法を行(ぎょう)ず」ではない、「世間の法より外に仏法を行(おこな)わず」と読まなくてはいけない。御真蹟は「行す」とあって、送り仮名も濁点も省略されているから、どちらにも読める。
しかし「行ず」と読んでは意が通じないであろう。ゆえに大石寺発行の昭和新定版では送り仮名を入れて「行(ハ)ず」となっているのである。
この文意は“智者というのは、世間の法以外には仏法を行じない”すなわち世間の法として行じていることが、そのまま仏法の道理に叶っているということである。
ゆえに次文に、太公望が暴虐なる殷の紂王の首を切って民の苦を抜き、張良が同じく悪王の二世王を亡ぼして民に楽を与えた事例を挙げ「此等は仏法已前なれども、教主釈尊の御使として民をたすけしなり」と仰せられている。
すなわち治世上の“仏法の道理”とは、安国論に示されるごとく、まず「謗法の人を禁(とど)め」ることにある。仏法已前の「謗法の人」とは五常を破る者である。
ゆえに災難退治抄には「仏法已前の三皇五帝は五常を以て国を治む。夏の桀・殷の紂・周の幽等の礼義を破りて国を喪すは遠く仏誓の持破に当れるなり」とある。
太公望・張良等が殷の紂・二世王を討ったのは、まさに「謗法の人を禁め」たことに当る。これが「智者とは世間の法より外に仏法を行わず」の事例なのである。
そして阿部教学部長が引いたこの御文は、まさに前文の「しかれば代のをさまらん事は、大覚世尊の智慧のごとくなる智人世に有りて、仙予国王のごとくなる賢王とよりあひて、---
八宗の智人とをもうものを、或はせめ、或はながし、或は施をとどめ、或は頭をはねてこそ、代はすこしをさまるべきにて侯へ」の“謗法禁断”を釈せられているのである。どうしてこの前文を隠して後文だけを、しかも読み違えて引用するのか。
それにしても、誤読して正反対の意を述べるとは、いかにもお粗末である。もし知らずに誤読したのなら“無智”、知ってやったのなら“邪智”といわざるを得ない。
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