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--- 正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む ---
第三章 正本堂の誑惑を破す
「王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて」について
阿部教学部長は云う。「この『王臣一同』ということであるが、現代では、民衆が王であるとともに臣である。ゆえに『民衆一同』と読むのが、今日では正しいのである」(悪書T)と。
この曲会は、一期弘法付嘱書の「国主」を民衆と歪曲したのと、同じ手口である。仏法と国家の関わりを否定して、何としても憲法の政教分離に抵触しないように文意を曲げれば、こういう解釈にならざるを得ないのであろう。
御書を拝してみよ。いたる所に国家の構成を挙げられて「王・臣・万民」の仰せを拝する。例文を挙げれば
「悪鬼の入れる大僧等、時の王・臣・萬民を語らいて」(撰時抄)
「日本国の王・臣と並びに萬民等が」(同抄)
「王臣邪義を仰ぎ、萬民僻見に帰す」(強仁状御返事)
「王・臣・萬民みなしづみなん」(妙心尼御前御返事)
「末法の法華経の行者を軽賤する王・臣・萬民、始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(聖人御難事)と。
これらの御文にある「萬民」が、阿部教学部長のお好きな「民衆」に当るのである。もし「民衆が王であるとともに臣である」ならば、国家の構成は民衆だけとなり、国家の体をなさなくなる。
では、大聖人は「王」についてどのように仰せられているか。
「王と申すは三の字を横に書きて一の字を竪(たて)さまに立てたり。横の三の字は天・地・人なり、竪の一文字は王なり、須弥山と申す山の大地をつきとをして傾かざるが如し。天・地・人を貰きて少しも傾かざるを王とは名けたり」(内房女房御返事)と。
すなわち「王」とは、天地と人民を治める最高統治者なのである。政治学で国家成立の三大要素を“領土・人民・主権”と説明しているが、この主権こそ最高統治権力、仏法でいえば王法に当る。これを欠いては国家は成り立たないのである。
そして「臣」とは、最高統治者たる「王」を補佐して行政の衝に当る者である。
この「王」と「臣」は、たとえ名称・形態は変わるとも、古今東西、あらゆる国家にその存在が欠けることはない。
ゆえに撰時抄には「一閻浮提の内・八萬の国あり、其の国々に八萬の王あり、王々ごとに臣下並びに萬民までも」として、「王臣」の存在が世界共通であることを仰せられている。
しかるに「王臣」を「民衆」と解釈するのは、国家の本質を理解する能力に欠けているか、不真面目かのどちらかである。阿部教学部長は恐らく後者なのであろう。
その証拠を挙げよう。池田は昭和四十五年五月の学会総会でこう云っている。「仏法でいう王とは、仝民衆・全社会を包含した内容であり、もはや、国王を指すのでもなければ国家権力でもない。現代的にいえば、政治・教育・文化等、社会全般のことを指すと考えるべきでありましょう。主権在民の現代は、民衆が王であり、社会が王なのであります」(大白蓮華45年6月号)と。
阿部教学部長の解釈は、ただ池田のこの誑惑に追従(ついしょう)しているだけなのである。
正義を重ねて示しておく。三大秘法抄における「王・臣」とは、王とは日本国の天皇、臣とは総理大臣以下各大臣である。
すなわち「王法仏法に冥ずる」広宣流布の日には、全国民はもちろんのこと、国家の統治機関たる天皇も各大臣も、一同に三大秘法を受持する、ということである。
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