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--- 正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む ---
第三章 正本堂の誑惑を破す
「勅宣並びに御教書を申し下して」について
( 建築許可証なる誑惑 )
前に述べたごとく、「勅宣並びに御教書」とは、国家が戒壇の大御本尊を守護し奉るという“国家意志の表明”を意味する。
仏国実現のため、大聖人はこの“国家意志の表明”を、戒壇建立に不可欠の手続と定め給うたのである。
しかし阿部教学部長はこれを単に「建築許可証」と歪曲する。その誑惑を具さに挙げてみよう。
「この勅宣・御教書の文についても、之を一つの手続きとして挙げたまう理由は、律令時代からの国家仏教的伝統により戒壇建立にたいし国主の勅許という制約があり、かつ歴史的前例があった。大聖人はかかる時代をふまえたまい国主の勅許という形での戒壇堂建立を述ペられたのである。
しかしこれは一往のことであって、かかる手続きや国主の裁許等が将来永久に必要とは限らない。国の機構・法制等は時代により変化してゆくからである。
--- 今日においては国法、制度、宗教的実状、国主の意味等のすべてが変わった今日、この勅宣・御教書をもって仏法にたいする国家権力の介入の必要性を論ずることこそ守文僻取の徒であり、大聖人の御真意に背くものである。
--- 社会の機構が変わって大聖人御在世の頃の意味の国主は今日において民衆である。勅宣・御教書の意味を考えれば、それは信教の自由の制度下における建立の手続き則ち建築許可証の意味となる」(悪書U)
また云く「国家が戒壇を建てるという勅宣並び御教書を出すのか、それとも、宗門で本門戒壇を建ててもよいという許可を勅宣と御教書という形で出すのかという問題がある。歴史上の事例から考えると、まず後者の方ではなかろうか。
--- 大聖人が、しばしば先例として引用される叡山の戒壇は、義真の建立(実質的には伝教大師の努力)であって、官の許可並びに天皇の詔が下りたのみである。大聖人の場合も、この叡山の先例にならって『勅宣並に御教書』と仰せられたのではなかろうか。
--- 勅宣にしろ御教書にしろ、一定の制度の下における一定の地位にある者の発する公文書という性質のものであり、これを日蓮大聖人が絶対不可欠のものとされるはずがない。
今日においては、もはや大聖人の時代におけるような勅宣はあり得ない。また、当然御教書もない。したがって、現在もなお、こうした古い時代の形式に固執し、戒壇の本意を失うことがあるとすれば、それは誤りというべきである。
それでは、現代においては、この『勅宣並に御教書』は、どのように考えるべきか。結論からいえば、そうした文書は現代ではあり得ないし、必要ないのである。消極的意味からすれば、先の叡山等の例から考え合わせて、一宗としての正統かつ独自の主体性を獲得せんがためと解することができる。これはすでに現憲法の信教の自由の保証によって実現されていると見てよい」(悪書T)
細井管長はさらにあからさまに云う。「今日も建築申請を出さなければ許可にならない。ここでは勅宣といっています。今でも同じことです。ちゃんと総理大臣の決まったところから許されなければ建築許可になりません。そこで本山の建物、みな建築許可、申請をして、申し請けてそして建っている。してみると決して国立じゃない。どこに国立という言葉があるか」(大日蓮50年11月号)と。
驚くべき破法のそ語である。もし「勅宣・御教書」が「信教の自由の制度下における建築許可証」ならば、昭和三十年十一月に建てられた奉安殿はこの条件をすでに満足しているではないか。
なぜこれを“三大秘法抄に御遺命された戒壇”とは云わなかったのか。
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