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 --- 正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む ---

  第三章 正本堂の誑惑を破す

   「勅宣並びに御教書を申し下して」について


      ( 叡山の戒壇の勅許の意義

 また、大聖人が先例として諸々に挙げ給う叡山の戒壇の勅許について、ことさらこれを建築許可のレベルに矮小化し、“
建立したのは義真で、天皇は許可したのみ”などといっているが、なぜこの勅許すなわち「勅宣」の仏法上の重大意義を隠すのか。

 すなわち叡山の戒壇建立における勅許とは、国家が法華経を唯一の正法と認め、諸宗をことごとく叡山の末寺とするという“
国家意志の表明”を意味している。
 なればこそ戒壇建立の前提として、まず正邪決断が公場で行われている。延暦二十一年一月の公場対決がそれである。
 「
終に仏の誡ををそれて桓武皇帝に奏し給いしかば、帝・此の事ををどろかせ給いて六宗の碩学に召し合させ給う。彼の学者等、始めは慢どう山のごとし、悪心毒蛇のやうなりしかども、終に王の前にしてせめをとされ、六宗・七宗一同に御弟子となりぬ」(撰時抄)

 しかし、この公場対決によって諸宗一同、伝教の弟子になったとはいえ、なお未だ不完全な帰伏であった。そのゆえは、円定・円慧においては伝教の正義に帰伏するとも、戒においては未だ伝教の弟子ではなかったからである。
 事実この対決ののちも、諸宗の得度者は東大寺の戒壇に上って具足戒を受け、天下公認の僧侶としての資格を得ていたのである。
 ここに叡山の迹門戒壇の建立は、日本の諸宗を円定・円慧のみならず、戒においても法華経の円頓戒に統一するという、名実共の
仏法の大革命であったのである。

 「
其の上、天台大師のいまだせめ給はざりし小乗の別受戒をせめをとし、六宗の八大徳に梵網経の大乗別受戒をさづけ給うのみならず、法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せしかば、延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず、仏の滅後一千八百余年が間、身毒・尸那・一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒日本国に始まる。
 --- されば日本国の当世の東寺・園城・七大寺・諸国の八宗・浄土・禅宗・律宗等の諸僧等、誰人か伝教大師の円戒をそむくべき。かの漢土九国の諸僧等は、円定円慧は天台の弟子ににたれども、円頓一同の戒場は漢土になければ、戒にをいては弟子とならぬ者もありけん、この日本国は伝教大師の御弟子にあらざる者は外道なり悪人なり
」(撰時抄)と。

 このような意義を持つ戒壇建立であれば、法華経の定・慧の流布に勝る大難があった。

 「
諸人手をたたき舌をふるふ、在世には仏と提婆が二の戒壇ありてそこばくの人々死にき。されば他宗にはそむくべし、我が師天台大師の立て給はざる円頓の戒壇を立つべしという不思議さよ、あらおそろし、おそろしと、罵りあえりき」(報恩抄)と。
 これら諸宗あげての怨嫉のゆえに、伝教の存生には戒壇建立は実現せず、減後ほどなくして義真のとき「勅宣」は下されたのである。
 かくて「
終に叡山を建てて本寺と為し、諸寺を取って末寺と為す。日本の仏法唯一門なり、王法も二に非ず。法定まり、国清めり」(四信五品抄)は実現したのである。

 もしこの「勅宣」が、単なる建築許可であったならば、どうして諸宗あげての怨嫉が起ころう。実に諸宗を叡山の末寺とする国家的な宗教革命であったればこそ、定・慧の流布に勝る大難があったのである。

 迹門の戒壇にしてなお然り、いわんや本門の戒壇においておやである。

 ゆえに大聖人は「
設い日蓮死生不定たりと雖も、妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か。伝教大師、御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定・慧は存生に之を弘め、円戒は死後に之を顕わす、事相たる故に一重の大難之れ有るか」(富木殿御返事)と、伝教を例として、本門戒壇建立の容易ならざることを密示されている。
 もし三大秘法抄の「
勅宣並びに御教書」が「建築許可証」で済むのなら「一重の大難」などのあるべき道理がないではないか。



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