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--- 正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む ---
第三章 正本堂の誑惑を破す
「勅宣並びに御教書を申し下して」について
( 憲法を主、仏法を従への批判 )
まさに大聖人が本門戒壇建立の手続として定め給うた「勅宣・御教書」こそ、国家が宗教の邪正を認識決裁し、三大秘法を国家の根本の指導原理として護持擁護するという、“国家意志の表明”そのものである。ゆえに大難事である。
しかしこれなくしては国家・国土の成仏はない。ゆえに必要不可欠の手続と定め給うたのである。
しかるを「勅宣・御教書」を単なる一時代における文書とし、「そうした文書は現代ではありえないし、必要ないのである」(悪書T)等というに至っては、まさに御本仏に敵対し奉る謗言というべきである。
たとえ「国の機構・法制等」は変わるとも、国家ある限り国家意志は必ず存在する。この時代を超えた本質を、大聖人は「勅宣・御教書」と仰せられたのである。
また「『勅宣並に御教書』は --- 一宗としての正統かつ独自の主体性を獲得せんがためと解することができる。これはすでに現憲法の信教の自由の保証によって実現されていると見てよい」(悪書T)といっているが、国家が宗教の正邪を認識していない現憲法の“信教の自由”が、どうして「一宗の正統 --- 獲得」と結びつくのか。
このような癡論を弄するのも、詮ずるところ憲法を主、仏法を従とする顛倒より発している。
ゆえに「今日、憲法第二十条に定められた政教分離の原則によって、国会も閣議も「戒壇建立」などという宗教的事項を決議する権限を全く有していない。仮に決議したとしても、憲法違反で無効であり、無効な決議は存在しないことと同じである。やれないことや無いことを必要条件に定めることは、結果的には、自ら不可能と決めて目的を放奏することになる」(悪書T)などというのである。
広宣流布以前に作られた憲法の枠内で戒壇建立が実現し得ないのは、ことわるまでもなく当然のことである。だから大聖人は「時を待つべきのみ」と仰せられている。
広宣流布が達成されれば、当然憲法も改正されよう。これが「王法仏法に冥ずる」の、法制上の事相でもある。そして“かかる時が来るまでは本門戒壇を建ててはならぬ”というのが、御本仏の厳しきお誡めでもあれば、“違憲”などという状態で建立する必要は毛頭ないのである。
それを、現憲法で出来ないことを必要条件と定めるのは「目的を放棄することになる」とは、憤りを通りこして、むしろ滑稽でさえある。
これらの発言を見るに、阿部教学部長は現憲法を至上・不磨の大典とみなしているごとくであるが、ことの序に、仏法の立場から明治憲法および日本国憲法をどう見るかについて、一言しておきたい。
明治憲法では、その文言こそないが事実上神社神道を国教として認め、国家がこれを保護していた。これに対し日本国憲法は、神道と国家の分離を命ずる連合国司令部の指令に基き、政教分離を規定している。
これを仏法より見れば、明治憲法は、国家の根本に毒を取り入れていたことになる。次の日本国憲法は、毒は捨てたが薬も用いないという憲法である。
そして最も勝れた憲法とは、毒を捨てるのみならず薬を用いるものであることは、自明の理である。すなわち広宣流布の時には、日蓮大聖人の仏法を基本原理とする憲法が制定されなくてはならぬ。この時が、本門戒壇建立の時なのである。
しかし阿部教学部長は憲法改正をしてはいけないかのように、またなし得ないことのように、次のごとく云う。「基本的人権を無視し、国民主権主義を否定する方向への憲法の改変は、憲法改訂の限界を超えるものであり、許されるべきでないというのが、憲法学会の定説ともいうべき圧倒多数説であると聞いている」(悪書T再刊後記)
誰に聞いたとは書いてないが、学会の法律家グループの“人れ智慧”であることは間違いない。
およそ憲法は、国家・国民のためにあるのであって、憲法のために国家・国民があるのではない。ゆえにもし国家・国民が、安泰・至福をもたらす唯一の法が三大秘法であると認識すれば、三大秘法を基本原理として憲法を改正することは、当然のことである。
このように、時代の進展にともなって憲法が改正されることは、国家社会の発展の法則でもある。ゆえに明治憲法においても、また現憲法においても、それぞれ「改正」の手続きがきめられているのである。
しかし法律論的には、憲法改正には限界があるとは云われる。たとえば明治憲法においては「国体」に関する規定は改正の対象とすることはできないと解されていたし、現憲法についても同様の趣旨の限界があるとも一往いわれる。
このところを阿部教学部長は吹きこまれたのであろうが、敗戦という革命的事態を迎えれば、明治憲法が基本原理を超えて全面改正されたごとく、広宣流布という国家の宗教的大革命があれば、また基本原理を超えた改正がなし得るのは理の当然である。
そしてこれを決定するものは、低次元の法律論などではない、実に“国民の総意”なのである。
ゆえに憲法学者もいう。「改正の限界という問題は理論的には重要な問題であるが、実際に憲法を改正すべきかどうかが問題となる場合においては、それを決定するものは、改正の限界を超えるかどうかでなく、この憲法の内容に対する国民の判断であるといわなければならない」(佐藤功「日本国憲法概説」)と。
学会の三百代言グループの幼稚な論理を、もっともらしく受け売りしてはいけない。
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