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--- 正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む ---
第三章 正本堂の誑惑を破す
「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」について
本門戒壇建立の場所は、日本国の中には富士山、富士山の中には南麓の勝地・天生原と、日興上人以来歴代上人は伝承されている。
しかし大石寺の境内に建てた正本堂を御遺命の戒壇と偽るためには、どうしても「天生原」を否定しなければならない。
そこで阿部教学部長は云う。「現在、本門戒壇の大御本尊まします大石寺こそ、本門戒壇建立の地であることは明らかである。凡そ戒壇建立地の大前提たる富士山は、大聖人の定め給うところながら、その山麓の何処であるかは、唯授一人の血脈を詔継され、時に当って仏法上の決裁を示し給う現法主日達上人の御指南を基本とすべきである。戒壇建立の地は、正本堂の意義に徴するも大石寺であることを拝信すべきである」(悪書T)
さらに云く「天母山の問題がありますけれども、かえって天母山でなく、この大石寺でいいんだと、大石寺においてこそ、ここに戒壇を建立すべきであると、いう事が現在、御法主上人猊下の御指南であったわけでございます」(大日蓮49年8月号)
すべてを“法主”の権威でねじ曲げようとしている。
では細井管長はどのように「天生原」(この中心地が「天母山」)を否定したかといえば詳細は顕正新聞(平成元年一月二五日号)に挙げて破折してあるのでここには省略するが、その要旨は、日興上人の文証たる「大坊棟札」を“後世の偽作”といい、また「天生原」説は“要山の日辰が云い出したことで本宗の教義ではない”等といっている。
しかし日寛上人の「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)を始めとして、歴代法主上人の御文はあまりにも赫々明明で否定しきれない。そこで細井管長は最後の一手として“「天生原」とは大石寺のある「大石ヶ原」のことである”とこじつけた。
すなわち天・生・原の一々の字義を諸橋大漢和辞典によって、「天」とは至高、「生」とは蘇生、「原」とは源、等と解釈したうえで「天生原は無限の生命の源を表わしている。よって天生原とは最高独一の妙法の原、即ち本門戒壇の御本尊であります。---
天生原こそここにありと信じてこそ、真実の我々の心である」(大日蓮45年9月号)と支離滅裂なこじつけをしている。
だいたい「天生原」がどこにあるかを説明するのに、どうして諸橋大湊和辞典が出てこなければならぬのか。古来より大石寺の周辺一帯は「大石ヶ原」と呼ばれてきた。この地名に因(よ)って「大石寺」(おおいしのてら)と名づけられたのである。そしてこの大石寺より東方四キロの小高い岡が「天母山」であり、その麓に広がる曠々たる勝地が「天生原」と呼ばれてきた。このように「大石原」と「天生原」は場所が異るから、地名も異ったのである。
そして日興上人以来歴代御法主上人は、大石寺の御宝蔵に戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し給い、広布の暁、天生原に国立戒壇が建立されることを熱願されてきたのである。ゆえに四十八代日量上人は「『本門寺に掛け奉るべし』とは、事の広布の時、天生原に掛け奉るべし、---
夫れまでは、富士山大石寺即ち本門戒壇の根源なり」(本因妙得意抄)と仰せられる。
このように「天生原」は明らかに大石寺とは異る場所にある。それを大漢和辞典の字義の解釈によって同一地にするとは、見えすいたこじつけである。
明治四十五年に刊行された御宝蔵説法本には次のごとく示されている。「此の大石寺より東の方、富士山の麓に天母原と申して曠々たる勝地あり、茲に本門戒壇御建立ありて」と。
「大石原」と「天生原」を“同一地”という誑惑を、一言にして破る明文ではないか。
それにしても、阿部教学部長の自語相違はどうする。昭和四十五年六月、顕正会の諌暁書に触発された八木直道・要行寺住職が、“正本堂を御遺命の戒壇といいながら、『最勝の地』ではない大石寺の境内に建てるのはおかしい”と「御伺書」を提出した時、阿部教学部長は同年六月九日付の文書を以て次のごとく回答している。
「正本堂が三大秘法抄に示したもう最終の戒壇でない以上、奉安殿に引続いてより大なる『戒壇御本尊』格護の殿堂として建設する場合、大石寺境内またはそれに隣接する地所を撰ぶことが諸般の実状と便宜上当然のことである」と。
この意をわかり易くいえば“正本堂は御遺命の戒壇ではないから、天生原ではなく大石寺境内に建てるのが当然である”ということである。どうしてこのような正論が云えたのかといえば、この時、顕正会の第一回諌暁により、しばし宗門に正義が蘇っていたからであった。
時の状勢によってくるくると教義を改変するこの無道心、恥ずかしいとは思わぬか。
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