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--- 正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む ---
第三章 正本堂の誑惑を破す
五 その他の国立戒壇否定の僻論
「世界宗教だから国立戒壇はない」
阿部教学部長はいう 「大聖人の仏法は、一国に跼蹐(きょくせき)するものでなく、広く世界民衆を救済する世界的宗教の最たるものである。この点から国立戒壇論の執見を教訓したい」(悪書T)
「世界宗教としての大聖人の本質より見て、苛(いやしく)も狭い一国の枠における国家主義的な執見に囚(とら)われてはならない」(悪書U)と。
これも逆さまの論理である。世界宗教だからこそ国立戒壇が必要なのである。
大聖人の仏法が全人類の成仏のための大法であることは、教行証御書に「前代未聞の大法此の国に流布して、月氏・漢土・一閻浮提の内の一切衆生、仏に成るべき事こそ有難けれ、有難けれ」と。
また報恩抄には 「日本乃至漢土・月氏・一閻浮提に、人ごとに有智・無智をきらはず、一同に他事を捨てて南無妙法蓮華経と唱うべし」と仰せあそばす。
このように、全世界の一切衆生が成仏を遂げさせて頂ける大法、全人類が信じ唱え奉る「本門戒壇の大御本尊」を、守護申し上げるのが三大秘法有縁の日本国の使命なのである。
これを「守護付嘱」という。そしてこの付嘱の責務を果す具体的顕現が、実に国立戒壇なのである。
では、なぜ守護を国家がするのかといえば、立正安国論に守護付嘱のいわれを説いて云く「是の故に諸の国王に付嘱して、比丘・比丘尼に付嘱せず。何を以ての故に、王の威力無ければなり」と。
人類にとってかけがえのない御大法を守護するにおいて、比丘・比丘尼ではその実力において欠ける。ゆえに国家がその責務を全うし奉るのである。
かかる国立域壇が、どうして「一国に跼蹐(きょくせき)するもの」「国家主義的」などの非難を受けようか。
万一、“国立”のゆえに誤解する者があるというならば、堂々とその大精神を説くべきである。
世界の至宝といわれる「ミロのヴィーナス」、ミケランジェロの「奴隷」、タビンチの「モナリザ」等をはじめ、美術品二十五万点を所蔵するルーブル美術館はフランスの「国立」であるが、「国立」のゆえに“偏狭”といって非難する者がどこにいようか。
国立戒壇とは、まさしく一閻浮提総与の戒壇の大御本尊を、全人類のために、日本が国家の命運を賭しても守り奉る姿なのである。
このような崇高な国家目的を持った国が世界のどこにあろう。かかる仏国こそ、真に世界の尊敬を受ける国家ではないか。
世界宗教と国立戒壇の関係は、何よりも三大秘法抄を拝すべきである。すなわち本門戒壇の大功徳が世界に及ぶことを「三国並びに一閻浮提の人、懺悔滅罪の戒法 ---」とお示しあそばすと共に、その建立は、日本国の広宣流布の時、日本国の「勅宣・御教書」を以てせよと、仰せられているではないか。
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