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御遺命守護の大闘争の足跡
編集部
二、唯一の御遺命は広宣流布の暁に
建立せらるる事の戒壇即ち国立戒壇
大聖人は弘法を破して云く、「弘法は智者なるが故に一を三と読む、日蓮は愚者なる故に一を一と読む」と。
大聖人の三大秘法抄に云く、「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて、戒壇を建立す可き者か。時を待つ可きのみ。事の戒法と申すは是なり」と。
又、御付嘱書に云く「日蓮一期の弘法・白蓮阿闇梨日興に之れを付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ、事の戒法というは是なり。なかんずく、我が門弟等此の状を守るべきなり」と。
一点の己義をさしはさむ余地も無い、明確なる仰せである。故に、第二祖日興上人は「広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時、必ず富士山に立てらるべきなり」(門徒存知事)と仰せられ、以下・歴代先師上人全て広宣流布の暁に事の戒壇即ち国立戒壇建立を、大聖人の唯一の御遺命として身命を賭して国諌され、時代は変れど一点の濁りもなく今日まで伝承されたことは云うまでもない。
ここに更に御遺命の正義を明確にするため、曾って昭和四十五年三月「正本堂に就き宗務当局に糺し訴う」の上書の中より肝心の二項を掲載し、もって歪曲を粉砕するものである。
この諌暁書は浅井先生が憂宗護法の熱情止み難く、心血を注ぎ日蓮正宗の伝統の正義を顕わした書であり、上書より八日後の四月三日にはもったいなくも猊下には講頭先生・浅井先生を本山に招かれ「よくぞ書いた、一分の誤りもない。これこそ宗開両祖の正義、本宗の伝統そのものである」とまで御印可を給わったのである。
実に国立戒壇の歪曲は、この書と更に四十六年の「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」の二通の諌暁書によって大陣は既に破られ、その後は仏法の道理の上からの反論は一切不可能になったのである。
今・妙信講員は、御遺命守護の御奉公の真只中である。故によくよくこの事を心腑に染め、師子の子として前三後一の油断なき斗いの糧とすべきである。(略)
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加
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