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御遺命守護の大闘争の足跡
編集部
五、御遺命守護の歴史と精神
( 創価学会、蔭で卑劣なる奸策 )
その間、男子部は毎日の如く広報車にて学会・公明党・聖教新聞社に抗議の演説をなし、九月六日には男子精鋭百五十名が学会本部前で歪曲粉砕の正義の演説をなした。
更に九月十五日には男子代表五十数名は宗務院に解散理由を求め詰問せんと本山に赴くも、全役僧逃げ回答なく、止むなく広報車をもって全山に大聖人の御遣命は国立戒壇なること、観散の不当なることを演説し、絶えて久しく聞かざる「国立戒壇の正義」を全山にこだまさせた。
又、九月二十二日には男女青年部が広報車と共に大阪主要駅並びに京都に、御遺命の正義と偽善者池田大作の悪を徹底して知らしめた。
しかし学会はこれに対し、本部も又個々の会員も教義の上での諍論は一切逃げ、蔭で卑劣なる奸策を弄していた。
七月には妙信講対策本部が設置され、池田会長の意をうけた副会長北条浩が本部長となり、妙信講解散の段取りを宗務院と練り、恰も学会は関係なく宗門と猊下の名の下に為さしめたのである。更に「元妙信講員の皆様へ」との珍妙なる文を法華講連合会機関紙「大白法」に載せ、盛んに八月中旬より妙信講員に発送又は学会員が配布し始めたのである。
妙信講の調査によると、いずれも帯封は白紙の上質紙を用いいずれも匿名、筆跡は十二名のグループであり、それをわざわざ本所・中央・日本橋の三局より郵送したことが判明した。
そこで直ちに、連合会・佐藤委員長代行に連合会が出したものか否かを問い合せた結果、「絶対出してない」と断言。更に九月十九日、青年部代表が「大白法」発行責任者・岩井氏に面会、事情を聞いたところ、「学会の北条に頼まれ、一万部手渡し、更に次号五千部も渡した」と判明した。岩井氏は直ちに責任を感じ、その場で北条に電話し、手渡した新聞の返還を求めたのである。ここに池田・北条の陰謀は暴露したのである。
次に彼等は連合会が協力しないと見るや、今度は発送名簿を宗務院に渡し、宗務院機関誌「大日蓮」を宗務院より郵送させ、更に「元妙信講員の皆様へ」「再び元妙信護員の皆様へ」と、妙信講を崩さんが為の脅迫にも似た手紙のコピーを内事部より郵送させたのである。
しかし妙信護の正義に燃ゆる信心は、一人の動揺もなく、益々徹底して悪を粉砕せんと斗いを進めていったのである。そこで彼等は悪の最後の手段を用いんと、次項の卑劣な行為に出たのである。(この事は第六項に詳細を述べる)
今振り返って思うに、妙信講の御遺命守護の御奉公は、最初から一貫して唯日蓮大聖人の御金言のまま、そして歴代先師上人の仰せのまま、純粋なる信心の上から、憂宗護法憂国の熱情より黙すあたわず為されたことは言うまでもない。
従って、四十四年、四十五年の諌暁の頃は殆んど一部の首脳幹部しか知らされず、四十七年に至って全講員に徹底をするも未だ外部の者には、一切発表をしなかったのである。それはこの事は宗内の問題であり、又宗門の恥を思い多数の純信な信徒に動揺を与えてはならぬと法を惜しむ道念からの処置であり、唯・学会・宗門の要人が懺悔訂正の一るいの信心の大道念を期待したに他ならない。
もし妙信講があの言論問題で、学会内部騒然の時マスコミを利用したら、どうなっていたか。敢えて妙信講は、一切の新聞社・出版社の取材を拒否し、ひたすら真摯な態度で極秘の中に諌暁をしてきたのである。この事は誰よりも学会・宗務当局の知るところである。
しかし今や、事態は全く変った。二度に亘る訂正の確認は無懺にも踏みにじられ、謗法厳禁と国立戒壇の正義は宗門から消えうせ、日本の傾きいよいまその度を増してきている。
ここに、第十六総会に於ける浅井先生の指導の中に、その精神を再び胸に焼きつけるものである。
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加
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