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        御遺命守護の大闘争の足跡
                              編集部
     七、国立戒壇が宗門の公論となり
              勝利の日まで…………


  (
正法治国・邪法乱国・国立戒壇の声

 三十九年より学会が、衆院選進出の準備として宗内を強力に統制せんと、宗門・連合会を通しての陰惨苛酷な弾圧。
 顕正新聞の発刊停止、教学部の廃止を余儀なくされ、更に選挙に協力せぬ妙信講を猊下に背く者とし遂に登山禁止をなし、剰へ未だに口にするも忌わしい講中の命を抹殺せんとの卑劣なる行為に出たのである。

 当時のことを浅井先生は「
いのちより大事な講中である。いかなる屈辱も物の数でない。ただジット堪え忍んだ。まことにその数年は真暗なトンネルの中をさまように似て、毎朝目覚めた時、講中の安危がまず心に去来し、後頭部に砂がつまっているような重くるしさを覚えている」と。
 この間にも折伏弘通の手はゆるめず、三千より五千、そして昭和四十四年には七千世帯に達した。

 講頭先生・浅井先生には、毎年十二月二十八日には凍てつく奉安殿の石畳の上で、講中を代表してはるかに戒壇の大御本尊を遙拝せられ、将来の御奉公を誓われたのであります。その心中、如何ばかりか。
 以来「聖人展」を契機に、岩壁によじ登った師子の子が身震いして立ち上るが如く、妙信講は決然と立ち上ったのである。

 五年間の講中の命運を賭しての諌訴は遂に一応の訂正を見るも、未だ顕わるべき正義は顕われず、正法治国・邪法乱国・国立戒壇の声は一国に絶えて久しい。


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