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--- 正本堂の意義に就て ---
“一期弘法抄の意義を含む”の日寛上人の事・義の戒壇の解釈
又、日寛上人の事・義の戒壇について、もう一重加えて解釈するならば、寛尊は所化の弟子を教導する為に、戒壇を事義の二段に別けられ、三大秘法を六義に別けられて説かれておるのでありますが、詮ずるに六義は本門戒壇の大御本尊を顕彰するためであって、本門戒壇の大御本尊は六義の正主である。本門戒壇の大御本尊を顕わさんがために、六義に立て分けて説明せられたのに過ぎない。
たとえば、曽谷殿御返事(二〇〇一頁)に、「法華経は五味の主の如し」と仰せになっております。乳味、酪味、生蘇味等のその五味の主であると申されておる。これは、五味は一代聖教で一代聖教は法華経を説き表すので、一代聖教を説く主眼は法華経である。故に法華経は五味の中ではなく、五味の主体であるとの意味でございます。
今、この言葉を転用して本門戒壇の大御本尊安置の処を事の戒壇と申すは、六義を超越した所謂独一円妙の事の戒壇であるからであります。
「正本堂は一期弘法抄の意義を含む、現時に於ける事の戒壇である」と宣言する次第でございます。
さて、寛尊の「事理の戒壇」の義を無視するため、驚くべき理屈がここに展開されるのでした。ここで云う
「六義を超越した所謂独一円妙の事の戒壇」とは、いったいいかなることであろうか。六義における「人・法の本尊」をも超越した、「所謂独一円妙の事の戒壇」とは..。
日淳上人の 「妙法受持は御本尊の受持にありますので、そのことが事の戒法になるのであります。しかし乍ら大聖人は一閻浮提広宣流布して仏国土の顕現を期し玉ふ故、戒壇建立を以て事戒法と仰せ玉ふのであります。従つてそれ迄は、義の上の戒法と申し上げるべきであります」の言、敢えて亡失することなかれ。
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