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             破邪新聞 昭和五十年一月四日号 (第2号)

             学会本部襲撃事件の真相
    あの頃のこと (第十二回)   慧妙 平成十三年九月一日号(第208号)
                               元創価学会顧問弁護士 山崎正友
 妙信講が学会本部襲撃を計画
 
事前情報で迎撃態勢を整えた学会

 (略) こうして、日蓮正宗と創価学会の徹底した反撃にあって追い詰められ、うろたえた浅井昭衛は、ついに、創価学会本部襲撃という、最後手段に踏み切ったのであった。

 浅井昭衛は、十月四日を襲撃の日と定め、青年部幹部と打ち合わせや準備を行なった。その様子が、逐一、私の耳に入っていたのは、いうまでもない。
 前日までには、襲撃に参加する人数、その集合方法や服装、指揮官および指揮系統、押し入る方法、最終日程等々が、詳細にわかっていた。

 当然、創価学会は迎え撃つ準備を整えた。
 本部地下に、柔・剣道、空手や拳法などの有段者や、警備のプロの男子部員を五十名ばかり待機させた。襲撃側より人数を抑えたのは、“襲われて防いだ”という印象を演出するためと、“その人数で十分対応できる”と計算したからである。
 また、念のため、本部前の青年会館や周辺施設にも、同様に待機させた。

 聖教新聞社、公明新聞のカメラマンを、要所要所に配置した。都合のよい証拠写真を撮るためである。また、後日の法的手段に備えて、弁護士も、本部前の見えるところに待機した。
 この日、午後から、文化会館六階の会議室では、私が主催して、宗務院役僧方と弁護士による、“正本堂御供養金返還訴訟”のための打ち合わせを行なった。
 襲撃による緊張感を、宗門側にも直に味わってもらいたかったから、スケジュールをそのように調整したのである。

 午後三時頃、妙信講本部から宣伝カーが出発し、四時前には、外苑東通り曙橋のたもとにある警視庁の前を通過した、との知らせが入った。
 私は、首脳と相談し、「
学会青年部が妙信講青年部を痛めつけるところを、宗門側に見られるのもまずいので、場所を移ってもらおう」と提案し、役僧方に、 「じつは、まもなく妙信講青年部員が、大挙して創価学会本部に殴り込みをかけてくる、という情報が入りました。万が一のことがあってはいけませんので、千駄ヶ谷の国際センターの方へ、一時移っていただきます」と伝えた。
 緊張に顔をこわばらせながら、役僧方が国際センターに移動された後、私は、文化会館の二階に陣取って、戦況を見守った。

 夕方五時半頃から、信濃町駅周辺に、妙信講青年部員が、三々五々集まりはじめた。彼らは、いつものようにビラをまいたりせず、緊張した面持ちで「
今日は、命がけだぞ!!」 「思いっきり闘おうな!!」などと、ささやき合っていた。
 すでに、宣伝カーが動き出した段階で、四谷警察署に対し、「
夕刻、妙信講青年部が大挙して学会本部に殴り込みをかけてくる、という確かな情報が入った。ついては、防御と警備のための出動をお願いしたい」と申し入れていた。
 四谷署からは、三十名の警官を派遣して、警備に当たることになった。



 これが、その当事者によって二十八年の後に語られた「学会本部襲撃事件の真相」でありました。そしてまたわたしも、その一方の当事者の一人でありました。
 わたしから見て、今回の山崎氏の述懐は、かつての破邪新聞のような意図的な偽り・謀りは一切ないことだ、と認めます。

 さて、そのときにわたしが妙信講男子部諸氏と共に、額にきりりと締めた「
御遺命守護」と赤く染め抜いた鉢巻は、今も大切に保存しています。
 さすがにこの日の事は、わたしの人生における出来事にあって最たる事、
今生・人界の想い出として、これに過ぎるはありません。



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「 冨士大石寺顕正会の基礎知識 」サイト運営責任者 櫻川 忠