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破邪新聞 昭和五十年一月四日号 (第2号)
学会本部襲撃事件の真相
あの頃のこと (第十三回) 慧妙 平成十三年十月一日号(第210号)
元創価学会顧問弁護士 山崎正友
権謀術数の果て、いちおうの決着みた妙信講問題
実力行使で自分の首絞めた妙信講
欺瞞に満ちた浅井の「訴訟結果」宣伝
十月四日、午後六時になると、四谷署の制服警官三十名が、学会本部に到着し、門と前庭に配置された。
これとほとんど同時に、鉢巻き姿で目をつり上げた、八十名を越える妙信講青年部員が集まり、宣伝力ーと共に、閉ざした表門の前で気勢を上げはじめた。
しばらく警官をはさんで押し問答をしていたが、長岡青年部長の命令一下、数名が塀を乗り越えて侵入し、内から門扉を開き、全員を構内になだれ込ませた。
彼らは統制のとれた行動で、一手は、案内所をとりかこみ、一手は、階段を駆け上がって、入り口の鍵を壊して文化会館内へ乱入しようとした。
警官達も手を出す間もない、迅速な、計画的な行動であった。そこで、待機していた五十名ばかりの学会の警備隊が出動した。
彼らは、たちまち妙信講員の大部分を門の外に押し返し、再び門を閉ざした。中に取り残された十名たらずの幹部達は、そこで袋叩きにあった。
これを見ていた塀外の妙信講員は、宣伝力ーを門扉に衝突させて押し開け、再びなだれ込んだ。警官達は、なだれ込んだ妙信講員の逮捕にかかり、警備隊は、残る連中を、実力で塀外に排除した。
三十分あまり乱闘が続いた後、“引き上げろ”の号令がかかり、妙信講員達は、信濃町駅方面に引き上げたところを、駆けつけた機動隊によって全員逮捕された。創価学会側は、一人も逮捕されなかった。
創価学会側は、数名が軽いケガをしたが、それは、すべて「相手の顔や頭がこぶしにぶつかって怪我した」というもので、つまり、殴った時に、手の皮がすりむけた、という程度であった。
一方、妙信講側は、建物の中に一歩も入れなかったのみか、数では劣る創価学会青年部に徹底的に叩きのめされ、多勢がそうとうの手傷を負わされた。
しかも、全員が逮捕され、長岡・村岡らは、さらに拘留されるし、浅井昭衛自身も取り調べを受けるハメとなって、うろたえ、取り乱した。
何も事情のわからない世論は、“暴力はいけない”といって妙信講を非難したし、宗内においても、大勢で仕掛けておきながら返り討ちにあったことが知れわたり、妙信講の面目は丸つぶれになり、同情や支援も失ってしまった。
池田大作は、自ら御法主上人に電話をし、「徹底的にやっつけました。お山へ行くようなことがあっても、創価学会が護ります」と得意気に報告した。
御法主上人は、「いやはや呆れた。あんなことをする連中は処分しておいてよかった」と述べられた。
(略)
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こうして一見、傍目には妙信講が創価学会本部に乱入して乱暴・狼藉をしているように見えることでしたが、実際は飛んで火に入る夏の虫、「中に取り残された十名たらずの幹部達は、そこで袋叩き」の状況でありました。
「殺すなよ」、「殺さないようにやれ」、創価学会側の指揮者から、そうした怒号さえ飛ぶような凄惨な状況が、そこにあったことでした。この悪辣なる奸計、あたかも御在世における熱原の法華講衆に対する行智の如く、ではないか。
弘安二年九月二十一日・日秀の田の稲刈りの日、行智は太田親昌・長崎時綱らの武士を集め、さらに大進房・弥藤次をも加えて大挙して法華講衆を襲い、馬上から弓矢・刀剣を以て法華講衆を傷つけ打擲し、二十人の法華講衆を捕縛し政所に引っ立てたのでした。
そして弥藤次の名を以て、鎌倉の門注所に告訴して云く、「今月二十一日、数多の人勢を催し弓を帯し、院主分の御坊内に打ち入り」云々と。
これあたかも、山崎元顧問弁護士による「暴力団顔負けの集団なぐり込み」なる悪宣伝と、警視庁四谷警察署長宛の「暴力行為等処罰に関する法律違反等告発事件」なる告発状を彷彿とさせる。
その告訴状に云く、「同本部構内になだれ込み、約三〇分間に亘って構内および文化会館二階入口付近などで暴れ廻り、もって同本部管理局長、秋谷武史の看守にかかる建造物に不法に侵入し、その際礼拝所である同本部に対し、前記方法を用い公然と不敬の行為をなした」と。
しかして実態は、「創価学会側は、数名が軽いケガをしたが、それは、すべて『相手の顔や頭がこぶしにぶつかって怪我した』というもので、つまり、殴った時に、手の皮がすりむけた、という程度であった。一方、妙信講側は、建物の中に一歩も入れなかったのみか、数では劣る創価学会青年部に徹底的に叩きのめされ、多勢がそうとうの手傷を負わされた」..でありました。
かかる 闇の帝王・SCIA長官・山崎悪徳弁護士の奸計の前に、妙信講はほとんど「善からんは不思議、悪からんは一定と思へ」(聖人御難事)の呈でありました。
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