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破邪新聞 昭和五十年五月五日号 (第8号)
猊下 在勤者一同を激励
元妙信講につき痛烈な御指南
“増上慢” “謗法”と断定
去る四月二十三日午後、高橋副住職以下妙縁寺在勤者は文京区西片町大石寺出張所において御法主上人猊下にお目どおりすることができました。
日頃、元妙信講らの悪らつな仕打ちにめげず寺を守り辛抱づよく戦っている在勤者に対し、親しくその労をねぎらい激励してくださるというもったいない思召しに浴し一同歓喜して西片町にはせ参じました。
猊下は席上、数々の暖かい激励・御慈愛をたまわるとともに、“元妙信講は明らかに謗法の徒、師敵対の輩である。君達は私の弟子として一歩もひかず戦い彼らを宗門より一掃するように”との大なる御決意と御指南を表明せられたのであります。
浅井父子に痛烈な御指弾
“増上慢” 誘法の輩、まともにとり合わず
「 浅井の増上慢と我見には本当に困ったことだ。まるで自分が大聖人になったような気でいる。彼の御遺戒置文の用い方は誤りだ。本当の正宗の教義に敵対する輩は、いつのまにか頭が狂い、判断も異常になってくる。所詮、謗法の徒とはっきりした以上、まともにとり合う心要はないんだよ
」と強い口調で、おおせになりました。
“内意” 勝手につくられて迷惑
“ひどい歪曲” 恩をあだで返されるのは残念
また、「私に公式発言以外の内意などあろうはずがない。そんなことがあったら宗内は混乱し管長をしての責務が果たせないじゃないか。誤解のないように言っておくが、私ははっきりと、昔、国立と言ったことはあるが、今日それを言わないと言っているのであり、その教義上の根拠は既に堂々と種々の機会に発表している。それに対して元妙信講をのぞくすべての僧俗が賛成してくれているのである。浅井が自分の意見がこうだというならともかく、私の名を利用し勝手に内意など作り上げられて大変迷惑している」とおおせでした。
更に、最近では浅井らは昭和四十七年七月六日妙縁寺御下向の折、猊下が浅井父子に辞世の句を示され説得されたことについて、“猊下は命がけで学会と戦うという決意を示され、その証しとして辞世の句をよまれた云々”と宣伝している旨御報告申し上げたところ、猊下は破顔一笑された後、
「あの時は早瀬(理事)、藤本、光久らも同席していたから覚えているだろう。浅井父子が当時余り殺すの死ぬのと非常識に大げさに騒ぐものだからやるなら私をやりなさいと言ってやったんだ。浅井の脅迫で恐れたり動じたりする宗門でないことをわからせるためにしたことである。それにしてもそんなわかり切った事実まで歪曲し虚妄を述べるとはひどい連中だ。私も包容する立場からこれまでいろいろ説得を試みてきたし、子供をあやすようにもしなけれはならなかったんだ。宗内を騒がせたくないから、わがままも無礼もできるかぎり見て見ぬふりして来た。この気持を逆手にとり、恩をあだでかえし、私を苦しめ私を傷つけることばかりしているのでは、もはやどうしようもないじゃないか」とおおせでありました。
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破邪新聞 第8号は、一面に猊下 在勤者一同を激励として、 妙信講を“増上慢” “謗法”とする記事を載せています。
細井管長が妙信講に対して述べたこと、ここ御遺命守護資料館に留め置きましょう。
同じく一面には 妙縁寺副住職 高橋信興の名で「六老僧について」と黒幕が、第二〜三面には元妙信講物語(二) 「何が彼等(浅井父子)をそうさせたか として
・教師気取りの浅井父子 ”僧侶に指導を受けるな、自分にだけ受けろ”
・権謀家の常とう手段 “御内意” “圧力” 論法のからくり
・“御内意”論法に失敗 二十六箇条を持ち出す
・猊下の訓諭にすら信徒の身分で干渉し
訂正を迫る
・法道院を追い出され 「私が出れば法道院はつぶれる」と捨てぜりふ
・日淳上人 法華講を守るために 浅井一派を隔離
・猊下の御慈悲につけこみ 勝って気ままな要求
・弱みにつけこむ下司な根性 宗門・学会が苦境になると騒ぎ立てる
と、事実歪曲の限りをつくしています。
四面は、「元妙信講、『謗法与同』の実態」として、創対連と協力しているとの記事を掲載しています。
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