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法華本門思想通要
( 国家的に建立される戒壇を本門の戒壇と称せられる )
又、法華経本門の文上に於ては、久遠の仏を開顕しては居ても、印度出現の本来の仏たる釈尊の報身中に開顕された仏であって、真実久遠の仏は示されていない。
而るに一歩進んで法華経本門寿量文底の境地に於ては、九界の衆生と仏との行体は一となり、只・仏と衆生との相異は、自己の尊厳を自覚して慈悲の上に立脚した行動であるかどうか、ということがその基準とたるといえる。
ここでは行体上に或る他律的な戒目を立てず、自己が妙法の当体なることを確信して行為に移すということだけである。別解脱戒等の取捨は、その時と場合とによって律すべきものといえる。
これは一切の戒律を捨てて、無法戒であるということではない。真の仏の慈悲に任するものは、戒目に律せられることなく、戒目を超えて大慈悲行を行動に現わすことが大切であることは、日興上人の五人所破抄等にも現われている。
この戒法は、南無妙法蓮華経の仏身である。この戒法に、困行果徳の二法が含まれているので、そのまま直ちに行体の上に、その功徳を受けることが出来る。この戒体は受持口唱によって、三世にわたることは教行証御書の通り金剛宝器戒と称せられ、三世諸仏は此の戒を持って法身・報身・応身の三身共、無始無終の仏に成らせ給う戒であり、天台大師も諸経の中に之れを秘して伝えざる戒である、と説かれて居る。
この様に、妙法蓮華経の妙戒は一度持てば、その戒躰は三世に壊れることのないものである。法華題目抄の様に、この妙法を一度でも受持すれば信謗共に妙法であって、必ず不退の位にいつかは至ることが出来るのである。
一般仏法並びに法華迹門の諸戒は、戒を破れば戒躰は壊れ去るばかりでなく、現今・日常生活には到底持つことの不可能な戒目であり、殊に時代の変遷の上からは全く実行不可能に属するものであるとされる。
聖人の大戒は大本尊を受持することであり、これを戒壇と称せられたことは明らかである。この妙法の大曼茶羅が末代の一切衆生個々に受持せられ、更に進んでは国家的に建立される戒壇を本門の戒壇と称せられるのは、三大秘法抄の文によるのである。
(上記科段は、便の為に当サイトにて添加)
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