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    富士門徒の沿革と教義

    国立戒壇は閻浮同帰への前提

 聖人の本懐満足とは、何であらうか。

 熱原法難は僧でなく武士でなく、唯の下人が法の為に不惜身命の経文を身に読んだもので、聖人御化導の徹底を物語るものである。其だから、百姓でも権勢に対抗できると証明されたことが、出世の本懐であると言って良いであらうか。

 聖人の仏法が個人の救済のみを目標にしたものなら其でも良からうが、しかし三大秘法は
国立戒壇を大関節とする、閻浮同帰を目標にする。国立戒壇は、閻浮同帰への前提だ。
 国立戒壇
の前提は、異体同心である。下々の下々たる土民までが聖人の師子王の心に同心し得たとき、国立戒壇への道が開ける。

 
勅宣はその結論であるが、百姓にまで信行が徹底しなければ、たとへ勅宣が出ても魂は入らぬ、戒壇建立運動の基礎が固まったことが証明されたのが熱原法難だ。法難そのものは出世の本懐では無いが、出世の本懐を成就できる見通しが確立したのが法難である。

 三大秘法のうち、題目は弘通の当初に建立され、本尊は佐渡・身延に顕れた。戒壇のみは
事相だから、聖人の在世には造り得なかった。在世に為し得るものは戒壇建立の準備であり、その中核となるべきものは戒壇院の本尊だ。さうすればその本尊を以って、在世可能の出世の本懐とする義がある。然らば戒檀本尊の顕発を以て、出世の本懐と言はれるのは最も当然だ。

 (略)

 
戒壇の願主は将来の本化国王で在すにしても、未だ主上御帰依の無い時、今上皇帝を以て願主とすることはできない。将来・天皇のみならず、外国の王も統領も頭を傾け、梵釈も来下するといふ重大極まりない御本尊に、法難の当事者となって鎌倉の権門と正面衝突をなし得た百姓男か、又は軽輩の武士を願主に立てられたと考へるのが、最も仏法的である。


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