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富士門徒の沿革と教義
( 悪を破るは国家機関 )
創価学会の国会進出は、富士門徒の国諌運動の大転回を示すものとして注目に値するが、猶・問題が無いわけではない。
其は第一に、宗教法人が選挙母胎となる為に起る問題で、国立戒壇の設立は宗教運動から生れるものではあるが、実行そのものはあくまでも政治的行為であるとする戸田氏の設定により、直接政治上・主動的立場をとりうる衆議院には一人も立候補させないことだ。(編集者注
昭和四十二年を以てこの制約ははずされ、公明党は衆議院に進出した)
第二に、今の所は選出された議員は何れも信仰の篤い人たちばかりだから、他に見られるやうな馬鹿げた行動を見せないのは結構だが、その代り、仏法護持といふ政策は共通しても、共通した具体的政策はとり得ず、一人一党化する傾向のある事である。
将来議員数が多くなれば、保守党と進歩党に分れる可能性もある。(入党は自由になってゐるが現在は全議員が無所属)
さうなれば人間として信用ができると共に、政策に就いても選択しうる可能性が出て来るであらうと思はれるが、今の所はその段階には達してゐない。
将来は、宗教結社を離れた政治浄化団体を、別に作るのが理想であらう。さうすれば衆議院に、候補者を送ることもできる。それまでの段階として、宗教結社が信用のおける侯補者を供給することは、仏国土実現の上に望ましい事といへよう。
前にも言ったやうに、折伏とは相手の誤りを歯に衣着せずに指摘することで、所謂「法華は折伏にして権門の理を破す」だ。徹底した理論闘争といふのが、折伏の原意である。
これを行門に応用すれば、実力を以て正義を立て、悪を破砕することになるが、その内・実力を以て正義を立てるのは、各人各様に自分の仕事や家庭の内で行ふことができる。
信仰が日常の生活にあらはれて人を感化するのだから誰にでもできるし、しなけれはならぬ。特に在家人は、経済や政治の上に実力をもってゐるのだから、その方での責任が重い。
しかし悪を破る方は、国家機関を通じて行はなければならないから、誰でもやれるといふわけには行かない。しかも折伏といった時、その重点は顕正よりも破邪に有るから、勢ひ誰にもできる折伏といへば、理論面に限られることになる。
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
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