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国立戒壇論の誤りについて
三、三国の戒壇建立の歴史について
( 印度における戒壇建立の歴史 )
さて、歴史的には仏(釈尊)が祇園精舎にあったとき、樓至比丘が仏に結戒受戒のために壇を作らんと請い、許されて三壇を創置したという。
即ち仏院の東に比丘のための戒壇を、西に比丘尼のための戒壇を、外院の僧院に更に一壇を作ったとあり、これを釈尊在世の戒壇の濫觴(はじめ)とする。
また当時の仏弟子は修行のために作法によって結界し戒場を定めた。四分律・冊補随機羯磨疏第二に「戒とは通じて止行を収む。場とは精?を揀択す
乃至 諸部に或は戒壇と名く。中国の寺には別に之を置く。此の郊壇の相の如く作法毎に階に登り位に就く也」と結界の内面の戒場に戒壇を設けたことを示している。
してみると仏教教団の発達と共に樹下山林或は寺院等、いたる処に戒壇が設けられていたと思われる。また戒壇図径に、仏滅後三百年・大阿羅漢優樓質那が北印度烏仗那(うじょうな)国に大寺を作り、石戒壇の縦広二百余歩あったことを記している。並びにこれらは僧侶が築いたものと思われる。
さらに西域求法高僧伝に耶爛陀(ならんだ)寺の戒壇を叙して「根本殿の西に仏歯木樹あり。是れ楊柳にあらず。其の次の西畔に戒壇あり。方大尺一丈余はかり云云」とあるのは、当寺が摩竭陀(まがだ)国・王舎城の北にあって、仏滅後間もなく国王帝日が深く仏教に帰依し、大伽藍(がらん)を創建してより、六代の王が次々に増建するところであり、寺全体が国王の外護建立であるが、戒壇自体は小規模であったようである。
このあたりの文章にはめんどうな“漢字”が多く、テキスト化するのに難儀なことでありました。
さて、参考のため岩波仏教辞典における、「戒壇」の項の説明を見ておきましょう。「戒の授受を行うために土を築いて設けられた特定の壇をいう。唐の義浄の大唐西域求法高僧伝には,インドの那爛陀寺の戒壇について、平地に方1丈余,高さ2尺ほどの壇があり、そのなかに塔があったとの記述がある」と。
そしてこの那爛陀寺については「〈那爛陀〉はサンスクリット語 N_land の音写。ナーランダー寺。インドのビハール州ラージギールの北方約11キロに位置する。5世紀初頭グプタ王朝のシャクラーディトヤ(クマーラグプタ、在位
415_455)王の創建」、「学匠が輩出し、玄奘や義浄も逗留して学んでいる。ハルシャ王朝(606_647)やパーラ王朝(730_1175頃)の保護を受けながら14世紀頃まで存続したようである」(岩波仏教辞典)と、五世紀初頭のグプタ王朝時の創建とされ、阿部説の「当寺が摩竭陀国・王舎城の北にあって、仏滅後間もなく国王帝日が深く仏教に帰依し大伽藍を創建してより」とは、だいぶその年代がことなるようでした。
最古の印度旅行記(405_412)とされる「法顕伝」には、ブッダガヤーは登場するがナーランダー寺には言及されません。このことも法顕の時代には未だ、ナーランダー寺が存在しなかったという一つの証左とされるのでした。戒壇論とはやや離れましたが、歴史を論ずるなら史学の知見をも視野に入れるべきでありましょう。ちなみに阿部管長監修の「日蓮正宗入門」(平成十四年一月)では、釈尊の入滅を紀元前九四九年二月(
p10 )としています。“仏滅(BC949)後間もなく”と“シャクラーディトヤ王・没(AD455)”との間には、那爛陀寺をめぐっておよそ1400年もの相違があることになるのでした。
( 平成十五年一月九日、櫻川 記 )
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