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国立戒壇論の誤りについて
三、三国の戒壇建立の歴史について
( 中国における戒壇建立の歴史 )
中国においては劉宋元嘉十年(AD四三三)僧伽跋摩が印度より長安に来って衆を化導し、翌十一年南林寺に戒壇を立て僧尼に授戒せしめたのを最初とするといわれる。
道宣律師感通録には晋の竺法護が瓦官寺に壇を建て、支道林は石城、汾州に、支法存は若耶渓に、竺の道一は洞庭山に、竺の道生は呉中虎丘山に等々、多くの訳経三蔵や中国の高僧が戒壇を建てたことを記している。
次に道宣律帥自ら唐の高宗乾封二年(AD六六七)に戒壇を建てたことが僧史略に見えており、以上の戒壇は僧の建立である。
中国における国王の関与としては、僧史略巻下に唐の代宗永泰元年(AD七六五)に大楽善寺に勅して方等戒壇を建て、須(もち)うる所の一切は官供なり、と伝えている、更に下って徳宗貞元十二年(AD七九六)永泰寺に勅して戒壇を置き、懿(い)宗の咸(かん)通三年(AD八六二)四月一日京師の左右両街の四寺に勅して各々方等戒壇を置かしめたとある。これらは唐朝の仏法外護を示すものて、勅に依って行なわれ、その費用が官の供養によって築かれたことは、しいて官立といえばいえるであろう。
因に方等戒壇とは大乗戒による戒壇である。かように中国では大小の戒壇、または僧侶や国王による戒壇が建てられていたのである。
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