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国立戒壇論の誤りについて
三、三国の戒壇建立の歴史について
( わが国における戒壇建立の歴史 )
次にわが国においては天平勝宝六年(AD七五四)四月五日、東大寺慮遮那殿前に戒壇を築き、聖武上皇、孝謙帝以下太后・太子・公卿等四百三十人が鑑真和尚によって受戒したのが、本朝登壇受戒の始めである。
ついで五月一日、勅して壇を大仏殿の西に移し、戒壇の堂宇を建立経営せしめられた。本朝戒壇院の濫觴(はじめ)である。
同七年二月、別に戒壇院を設け、更に宝字三年(AD七五九)鑑真は唐招提寺を建立し、淳仁帝は詔して戒壇を築かしめ、自ら菩薩大戒を受けられた。
そして「諸宗の度者は先ず、招提に入って受戒学律せよ」と天下に詔したので、以来諸宗の得度者悉く此処に趨くに至った。同五年春、鑑真は奏上して下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に各々戒壇を建て、中国、東海道、西海道の三処に区分して受戒せしめることとなった。
六十余年の後、天台僧最澄は久しく比叡に住して法燈を掲げていたが、畢生の念願たる大乗戒壇独立のため、弘仁九年五月二十一日(AD八一八)天台法華宗年分学生式を提出し許可を請うた。また八月二十七日、勧奨天台年分学生式を重ねて上奏している。
由来、南都の戒壇は鑑真の伝えた法華一乗の円意による戒法的精神を有していたが、南都教界に法華の開顕の妙旨が理解されていないところから、それか戒法の基本とならず、法相三論の権大乗思想と共に小乗戒に定着していた。
「唐招提寺」についてもうすこし一般的な知見を、ここで参照しておくこととしまましょう。
招提とは、「サンスクリット語 c_turdi_a の音写である拓闘提奢の略称、拓提が誤記された通称。四方の人々という意味で、東西南北の四方で自由に修行している僧達をさす。それらの僧を〈招提僧〉といい、彼らへの施物を〈招提僧物〉、用意される宿坊を〈招提僧房〉といい、それらは僧団の共有物として与えられる」(岩波仏教辞典)
そもそも印度では、釈尊もその弟子達も「出家」したのであって、“世俗”からも“国家”からも離れて、森に寝・野に臥して托鉢・遊行し、そうした僧をして〈招提僧〉と称せられたことでした。
さて奈良の「唐招提寺」の寺名の由来は、苦難の果てに日本への仏法弘伝の道念止みがたく唐から招来した鑑真和尚を称えるべく、建立された伽藍・寺院の意義でありました。
( 平成十五年一月十五日、櫻川
記 )
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