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    国立戒壇論の誤りについて

 
三、三国の戒壇建立の歴史について

  (
叡山大乗戒 独立允許

 桓武天皇の勅命による南都学匠の天台習学も徹底するに至らず、かえって三乗真実・一乗方便の偏見に再住して北嶺の振興を妨害した。
 しかるに比叡山に戒壇がないため、天台宗の受戒者もあえて南都へ登壇せねばならなかったのである。従って二十四人の得度者中・十四人は南都に至ったまま帰らぬ時もあったという。

 茲に最澄は法華一乗の光顕のため、自宗の維持防衛と発展のため、断固として小乗の戒壇を踏む非を鳴らし、円頓戒壇の確立を上申したのである。
 嵯峨帝は南都の僧綱に可否を閲せしめ、南都諸僧は翌年まで態度を保留した。そこで最澄は翌十年三月十五日、更に天台法華宗年分者回小向大式を上奏し、凡そ印度と中国には一向小乗寺一向大乗寺大小兼学寺の三種制あれど、当時の我朝に一向大乗寺が存在せず、また法華一乗の菩薩大戒の伝流の地なき故に、この大道を建てられんことを重請した。(伝教大師全集一−五四二)

 学生式の上表より一年を経て南都の協議は漸く一決し、五月十九日護命長慧等は上表と奏文をもって最澄に対する反撃を試みた。また東大寺の景深は迷方示正論を作り二十八失を挙げて学生式を駁したと伝える。最澄は為に顕戒論三巻を著わして護命等の上表、奏文を弾劾、その妄愚を破し、遂に南都の諸人を閉口せしめた。
 このように南都に対する三乗一乗の権実論、小戒大戒の論評は理論的に明らかに最澄の主張が勝利を収めたが、実際には教門における日本の重鎮として権威並びのない南都は、聊かもその権利を譲り渡すに至らなかった。朝廷の意志は最澄の願う大乗戒壇に傾いていたが、南都の頑強な拒絶によって敢て行なうに至らず、ついに最澄存命の日には勅許は下りなかったのである。

 弘仁十三年(AD八二二)六月四日最澄入寂に対し天皇は深く哀惜したまい、七日を経た六月十一日をもって、叡山大乗戒独立允許の官符が発せられた。(伝教大師全集五附録一〇九)
 又翌年二月延暦寺の勅額および大政官牒が下った。それには、天台宗の得度は治部省及び南都僧綱の手を経るを要せず延暦寺にて行ない、延暦寺の別当は得度者に度牒を与えた後、治部省に下知すべきを定めている。依て三月に権中納言藤原三守と右中弁大伴国道を延暦寺別当として、年分二人を度し、四月には伝教の弟子義真によって菩薩大戒の受戒が延暦寺に行なわれた。



 ここでさらりと阿部教学部長は、「嵯峨帝は南都の僧綱に可否を閲せしめ」云々と記しているのでしたが、その「僧綱」についてすこしく見ておきましょう。

 「
僧綱(そうごう)とは、僧尼の監督にあたり,法務を統轄する中央の僧官。624年(推古32)、僧尼を統領するため、僧正・僧都・法頭が設けられたことを始めとする。後に僧正・僧都・律師となり、通常、僧正・大僧都・少僧都・律師の四階で構成され、またその下に佐官(後に威儀師・従儀師となる)が置かれた。819年(弘仁10)には僧正・大僧都・少僧都それぞれ1人、律師4人となり、864年(貞観6)には僧正・僧都・律師の位階としてそれぞれ法印大和尚位(ほういんだいかしょうい)・法眼和上位(ほうげんかしょうい)・法橋上人位(ほっきようしょうにんい)が設けられた」(岩波仏教辞典)。

 「
僧綱の位として、684年(天武13)、僧正・僧都・律師の3位がおかれ、後に大僧正や権僧正、大僧都・少僧都などがおかれた。864年(貞観6)には僧綱に大法師以上の位を設け、僧正を法印大和尚、僧都を法眼和上、律師を法橋上人とし、それぞれ従二位、正三位、従三位相当とした」(同)。
 「
江戸時代には医師・連歌師・狂歌師などにも授けられた。1873年(明治6)公的な僧位は廃止されたが、各宗派に管長の制度が設けられた後、各宗派で独自に僧階が設けられ、僧正・僧都などの称号を授け、僧階の高下によって僧の位次が定められるようになった」(同)。

 印度・中国はさておき、我が国の仏教は推古・天武朝以来その是非はともかくとして、歴史的には国家が尊崇・運営するという「国教」の位置をしめたことでした。したがって、僧尼は政府が任命した”僧綱”以下の官僚・官吏たる、「僧官」の監督下に常におかれました。
 そうした背景のもとではもちろん、「戒壇建立」にしても当時として“民衆立”や“私立”などという概念がそもそもどこにも存在しなかったのであって、南都の唐招提寺も下野の薬師寺も筑紫の観世音寺も北嶺の延暦寺も富士の本門寺も、それは「国立戒壇」に他ならないことでした。

 聡明・博識の阿部教学部長にして、その程度の我が国の仏教史の常識を知らないはずもないのでしたが、ここはあたら“誑惑”のためそうした<史実>にふれることを慎重に回避しつつ、創価学会・池田会長の覚えめでたきを期してひたすら韜晦にこれつとめたことでありました。

                          ( 平成十五年一月十八日、櫻川 記 )


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