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国立戒壇論の誤りについて
四、国立戒壇論における国家観の誤謬
( 国家に統治主権が存在することは当然 )
次に、国際法において、主権国、非主権国といって区別されるときの「主権」とは、“国家の独立性”という意味であり、日本国憲法前文第三項に用いられている「主権」は、まさにこの意味である。
更に、「主権」という言葉を、“国家権力の性格”を示す意味に限定してつかう場合がある。国家法人説でいうところの「主権」がそれである。
このように、種々用いられる「主権」は、用いられる場合によって、次元とその意味が異なっていることに注意すべきである。これをわきまえずして用いたならば、非常な混乱をきたすのである。
特にいわゆる国家法人説(国家主権説というも同じ)でいう主権概念と、国民主権・君主主権という場合の主権概念を並列混同して考えることの誤りは、新憲法制定直後にも一時みられたが、憲法学者達によって、明確に指摘され、改められているところである。
この点については、門外漢の私見を述べるよりも、学者の説を引用する方が解り易い。例えば、有名な憲法学者で、国家法人説の代表者といわれる美濃部達吉博士の説は次のとおりである。
「主権在君とは、国家意思を構成する最高の力が君主に発することをいい、主権在民とはその力が国民に発することをいうもので、それは君主又は国民が統治権の主体たることを意味するのではなく、統治権は何れの国においても常に国家の権利であり、国家がその権利主体であるが、ただその統治権を発動する最高の意思が、国家組織上君主又は国民に属することを言い表わすのである。我が新憲法が国民主権主義をとっているというのは、この最後の意義においての主権、即ち国家の最高意思が国民に発することを主義としていることを意味する」(美濃部達吉・新憲法概論二六頁)
このように、主権概念を正しくつかいわけてみると、国立戒壇論者の誤りが浮きぼりにされる。
国家に統治主権が存在するということは当然であり、それは、天皇主権か国民主権かということとはまったく違った次元のことである。まして、主権者即ち最高権力者が“如何に政治を行なうべきか”という原理としての王法とは、更に一段次元の違うことである。百歩ゆずって王法を統治主権と解したとしても、国家法人説でいう統治主権は、国家固有のものであり、君主のもつものではない。君主主権、国民主権という場合の主権者は、その機関であり、決して同一次元ではない。
だから、国立戒壇論者のいう統治主権を“人に約する”ということが、現代における民主とか王はだれかという論議であると好意的に解釈しても、その答えは(主権論からは)天皇ではなく、国民とならざるを得ない。
阿部教学部長はここで「国家法人説」を承認・敷衍し力説して、「国家に統治主権が存在するということは当然であり、それは、天皇主権か国民主権かということとはまったく違った次元のこと」だと語るのでした。
美濃部氏も、「君主又は国民が統治権の主体たることを意味するのではなく、統治権は何れの国においても常に国家の権利であり、国家がその権利主体である」と。
しかるに、“国民主権”とは本来「まったく違った次元」であるはずの“国家の統治主権”をして、あえて混同・同一視して来たのは、どなただったのでしょう。
「国家法人説でいう主権概念と、国民主権・君主主権という場合の主権概念を並列混同して考えることの誤り」を犯し、「主権概念を正しくつかいわけてみる」とその「誤りが浮きぼりにされ」て“自語相違”するのは、阿部教学部長でありました。
さらに、阿部教学部長は「国家法人説でいう統治主権は国家固有のものであり、君主のもつものではない」が故に、「国立戒壇論者のいう、統治主権を“人に約する”ということ」は「天皇ではなく、国民とならざるを得ない」と、粗雑な主張をするのでした。
国家法人説では、「君主又は国民が統治権の主体たることを意味するのではなく、統治権は何れの国においても常に国家の権利」だとするのであって、統治主権は“君主のもつものではない”し”国民のもつものもでもない”、とすることでしょう。
国立戒壇論者であれ誰であれ、もし上記の「国家法人説」を前提にして統治主権を“人に約する”という議論をするなら、そこから「天皇ではなく、国民とならざるを得ない」などという<偏端な結論>が導かれることのないことは、自明でありましょう。
( 平成十五年二月十二日、櫻川
記 )
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