|
国立戒壇論の誤りについて
四、国立戒壇論における国家観の誤謬
( 「王法」と統治主権 )
まして、統治主権に対する国民主権、君主主権というときの主権概念は同列、同次元におけないとすれば、王法即ち王の法を統治主権なる概念でおきかえることは不可能である。
つまり、国立戒壇論者は、二重の誤りを犯しているということである。
国家法人学説は、十八世紀のドイツに発した学説であるが、それは、君主と国民の間の主権争いの本質をそらし、君主の立場を擁護し、国家主義的立場を強化するために用いられたといわれている。
故に、誤って用いれば、政治的に重要な問題をあいまいにし、国家主義、全体主義を強調するための道具にされ易い学説であり、これをあえて論拠とするところに、国立戒壇論者の仏法以前の政治的信条を仏法の名のもとに他に強要しょうとする姿勢がうかがわれる。
個人の信条としては、いかような考えをもとうと自由であるが、仏法教義に名をかりて、これを他に強制することは仏法の筋道からして許されないことである。何よりも、それは、政治的信条によって、大聖人の仏法を曲げるものといえよう。
ここで、主権在民ということについて、少し述べたい。明治憲法では、「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治」することになっていた。しかるに、新憲法では、前文および第妄において、「主権が国民に存する」こと、および憲法自体が国民が代表者を通じて確定したものであると宣言している。
又、国政が「国民の厳粛な信託によるもの」であり、「その権威は国民に由来」するものであるとして国権の憲を説明し、「その権力は国民の代表がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」という民主主義の方法と目的を述べ、「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである」と宣言している。
これほど明確にされているものを、“国民が統治しているのではなく、民意を反映せしめんとの指向を主権在民というだけ”などということは、よほど常規を逸した時代錯誤の迷見といわれてもいたし方なかろう。国家法人説の学者すら主権は国民にあることを認めているにおいてをや。
或いは、日本の歴史において、種々な政権交替があったにもかかわらず、皇室が存続していることをもって、国主、統治権の主体とする根拠というかも知れないが、これも間違っている。新憲法以前は、いかなる幕府、執権、議会、首相といえど、その権力は主権者たる皇室に由来するものであった。
しかし、新憲法下における国家権力は、すべて主権者たる国民の信託によるとされているのであり、この体制の本質的変革という事実を看過しては、正当な論議は不可能である。
これまで、「国家法人説」を承認・敷衍し力説して来たかのようにみえた阿部教学部長は、ここで突如“変節”・“豹変”を果たします。
“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”とばかり、国立戒壇論者が「国家法人説」に依拠し、かつ「政治的信条」にすると見立てては、「国家法人説」なる学説は、「君主の立場を擁護し、国家主義的立場を強化する」もので、「国家主義、全体主義を強調するための道具にされ易い学説」だと、こんどは手のひらを返しては美濃部博士に対し、ボロクソの謂いようでありました。
阿部教学部長は、「二重の誤り」やら、「仏法教義に名をかりてこれを他に強制する」やら、「政治的信条によって大聖人の仏法を曲げる」やらと、国立戒壇論者にあらぬ“難癖”を投げつけるのでした。さればこれらの“言葉”、よく覚えておきましょう。
本章の表題である「国立戒壇論における国家観の誤謬」なる文語も、“国家法人説”に対する非難なのでありましょう。先には認めていたかの如くであった「国家法人説」をして、阿部教学部長は「よほど常規を逸した時代錯誤の迷見」なのだと、突如・断定をするのでした。加えて「国家法人説の学者すら主権は国民にあることを認めているにおいてをや」などと、またもや「主権概念」を混同しては国家法人説の学者には迷惑千万の“難癖”を、言いたい放題でありました。それこそ「常規を逸した」“発言”、でありましょう。
美濃部氏の学説の意義は、「主権在民とはその力が国民に発することをいうもので」、また「国家の最高意思が国民に発することを主義としていることを意味する」ことを踏まえた上で、“国民主権・君主主権の概念と統治主権の概念を並列混同”してはならず、両者は“まったく違った次元のこと”であり、「君主又は国民が統治権の主体たることを意味するのではなく、統治権は何れの国においても常に国家の権利」なのであって、<統治主権>をして国民や君主に認めているのではないことにもかかわらず、阿部教学部長にはあえて“統治主権”を否定し“国民主権”の辺を是が非でも宣揚したいところの事情があるのでしょう。
さて、この「新憲法下における国家権力は、すべて主権者たる国民の信託によるとされているのであり、この体制の本質的変革という事実を看過しては、正当な論議は不可能」なる言葉において、阿部教学部長の言説における矛盾・自語相違・自家撞着たる言明の“本質”・“由縁”が、集約されて見てとれましょう。
阿部教学部長は、「新憲法下における」「この体制の本質的変革という事実」という<他義>を以て三大秘法抄の「王法」を論ぜよ、そうでなければ“正当な論議は不可能”だ、ときっぱりと宣うのでありました。
( 平成十五年二月十五日、櫻川
記 )
戻る 次
|
|
|