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    国立戒壇論の誤りについて

 
四、国立戒壇論における国家観の誤謬

  (
勅宣・御教書を天皇の詔・国会の議決
              とするのは憲法違反で無効


 次に、勅宣、御教書を、現時においてなお天皇の詔と国会の議決でなくてはならないとする誤りについて述べる。
 いかに国立戒壇をとなえる者も、幕府とか執権職の存在しない今日において、御教書をそのまま実現せよという愚かさはさすがに自覚しているらしく、これを“国会の議決”“内閣の意思”と現代的解釈に転じている。しかし、勅宣については、新憲法にも天皇の国事行為が定められていることをもって、天皇の詔であるとの解釈になお固執している。

 しかしながら、いずれも、現憲法の解釈について明らかに誤りを犯しており、不可能を実現せよというのに等しい。
 今日、憲法第二十条に定められた政教分離の原則によって、国会も閣議も、「戒壇建立」などという宗教的事項を決議する権限を全く有していない。仮に決議したとしても、憲法違反で無効であり、無効な決議は存在しないことと同じである。やれないことや無いことを必要条件に定めることは、結果的には、自ら不可能と決めて目的を放棄することになる。

 又、天皇の国事行為というのは、憲法第六条、第七条に天皇か行なうと定められた行為のことであり、それ以外にはない。従って、憲法第六条、第七条によって天皇に与えられた諸々の行為を総称して「国事に関する行為」と呼んでいるのだともいえる(有輩閣、註解日本国憲法上、一二四頁)。
 それ以外に、一般、抽象的な国事はあり得ないから、“国立戒壇建立こそ国事の中の大国事”といってみても、およそ荒唐無稽な論議であり、これについて天皇が、詔を発することは、やはり、不可能という他ない。できないことを求められて迷惑されるのは、むしろ天皇であろう。

 それでも、あえて、戒壇建立のために天皇の詔と国会の議決を要するというならば、戒壇建立のときには、現憲法を改正し、明治以前の天皇制を復活すること(明治憲法下でも、かかる詔を発することはできないと思われる)と、政教分離の規定を廃止することを主張しなくてはなるまい。
 そして、もしもこのように戒壇建立のために、政治体制を昔へもどせという主張をすら辞さないという、教条主義をつらぬくならば、そもそものはじめから、広宣流布の時には、鎌倉時代の政治体制にもどすべしとの主張をなすべきであって、なまじ、“国会の議決”などと中途半端な現代的解釈をするのは、その主張に首尾一貫を欠き、かえって矛盾をきたしている。



 阿部教学部長の論理の「基礎」は、どこまでも占領下において最高司令官マッカーサーに与えられた現行憲法であって、以て「現憲法の解釈について明らかに誤りを犯しており、不可能を実現せよというのに等しい」と、力説するのでした。

 さらには、「今日、憲法第二十条に定められた政教分離の原則によって、国会も閣議も、「戒壇建立」などという宗教的事項を決議する権限を全く有していない」とし、それは「自ら不可能と決めて目的を放棄することになる」と、「日本国憲法」という<他義>を以てして日蓮大聖人・一期の御遺命を「不可能と決め」つけ、厚顔にも「目的を放棄ことになる」と決めつけます。
 しかも、“「戒壇建立」などという” などと云う謂いようが口をついて出るところに、阿部教学部長の“心地”が かいま見られましょう。

 
さて、その帰結として阿部教学部長は、“勅宣・御教書を天皇の詔・国会の議決とするのは憲法違反で無効”だと高らかに宣揚し、重ねて「“国立戒壇建立こそ国事の中の大国事”といってみても、およそ荒唐無稽な論議」だと、大聖人並びに日興上人の「ご願行」を嘲り・否定するのでした。
 ”憲法が主・仏法は従”という思想に立脚する阿部教学部長には、日蓮大聖人の云われる
剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(諸法実相抄)や、「ただをかせ給へ梵天帝釈等の御計として日本国一時に信ずる事あるべし」(上野殿御返事)という“一国同帰”の暁の到来は、信じがたい“荒唐無稽”の言説と映るのでしょう。

 加えて、
「広宣流布の時には、鎌倉時代の政治体制にもどすべしとの主張をなすべき」だなどと、筋違いの非難を為すのでありました。

                          ( 平成十五年二月十八日、櫻川 記 )


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