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国立戒壇論の誤りについて
四、国立戒壇論における国家観の誤謬
( 現時において実現不可能な解釈 )
しかるに、“国会の議決”などと、現代的解釈へ一歩ふみ出したことは、既に教条主義では実現できないことを悟り、これを捨てて、現代への適応へ一歩ふみ出したことであり、そうであれば、現憲法の定める制度にまで歩みよってはならないという根拠は、既に失ったものといわなくてはならない。
少なくとも、現時において実現不可能な解釈をしたのでは、五十歩百歩、何のための現代解釈かといわれよう。
ここで考えなくてはならないことは、仏法は何のための存在かということである。一般的用語を用いるならば、それは、人間のため不幸をとりのぞき、幸福をもたらすことを究極の目的とするものであるといえる。人間の幸福のための手段として、政治・経済・科学・文化、その他あらゆる分野が存在し、それぞれの役割を果たしている。
仏法は、いうまでもなく、その根底となるものであるが、しかし、すべての領域を具体的に支配したり規定するものではない。それぞれの分野には、それぞれの法則性が支配していることは論をまたない。逆に仏法が政治や経済等によって規定されるものでもないことは当然である。
はじめに述べた如く、仏法上の目的が、一定の政治体制のもとでしか実現できないと考えることは、仏法が政治に支配され、従属させられることを認めるものである。又、政治体制を、政治自体の原則的な必要からでなく、宗教目的のためだけに変更するということは、明らかに矛盾しているといわなくてはならない。
又、大聖人の仏法は、時代、社会を超越した普遍妥当性をもつものであり、それ故に、末法万年、尽未来際まで行き止りがなく流布すべきものである。いかなる時代、いかなる体制においても、人々を幸福にする力のあるものである。この本質は、特定の政治体制を仏法の存在条件とするという見解と、明らかに相容れないものである。
阿部教学部長は、「現時において実現不可能な解釈をしたのでは、五十歩百歩、何のための現代解釈かといわれよう」と、見当違いの批判をどこまでも続けるのでありました。
しかも実は、その批判の前提がそもそも成立しないことを承知の上で、あえて気づかないふりをし続けます。
そもそも、“言論・出版弾圧問題”で世間からその卑劣を指弾され、国会に証人喚問要求が出されるという絶体絶命の窮地にあった池田会長を擁護するため、宗門はあえて昭和四十五年五月、“国立戒壇放棄”に踏み切ったのでした。それ以前にあっては、宗門が自ら「国立戒壇」建立を“目的”とし“願行”としていたことは、当サイトに掲げる幾多の宗門人の発言をみれば、さすがに否定できないことでありましょう。
しかも、「勅宣・御教書」が現憲法下において実現不可能であることは、なにも阿部教学部長が力説するまでもなく、宗門人の誰もが承知していたことでした。
「国立戒壇建立」とは、日本国憲法下において実現不可能な現時のコトではなくして、将来 「広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へ」(諸法実相抄)、「一切の万民皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし」(撰時抄)、「其の義なくば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり」(報恩抄)、「日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り」(諸人御返事)、「天下万民諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え」(如説修行抄)、「日本国一時に信ずる事あるべし」(上野殿御返事)の時にあっては、法華有縁の日本国の王法も自ずから憲法・国法が変更されて“王仏冥合”し、“勅宣並びに御教書を申し下し”て「本門戒壇」が建立されるべし、ということでありました。
現在の政治体制のもとで実現できないから、国立戒壇を捨去せよと論じる阿部教学部長こそ、「仏法が政治に支配され、従属させられることを認めるもの」でありましょう。
大聖人の「時を待つ可きのみ」とのご制誡を嘲ずり、政府照会に対し偽りの答弁書を出した池田会長に与同し、「正本堂」をして御遺命の「事の戒壇」・「本門戒壇」だとたばかり、“信教の自由”や“建築許可証”(本門事の戒壇の本義)を以て「勅宣・御教書」だと誑惑し、「本門戒壇」の伝統法義をねじ曲げた阿部教学部長こそ、“日蓮大聖人の御遺命”に背き
「宵に鳴くは物怪なり」(如説修行抄)、「時を失う物怪にあらずや」(同)、「本門の付属を失う物怪なり」(本因妙抄)の如くでありました。
( 平成十五年二月二十一日、櫻川
記 )
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