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国立戒壇論の誤りについて
四、国立戒壇論における国家観の誤謬
( 「信教の自由」が“勅宣や御教書”に相当 )
このように考えてくると、国立戒壇論者の主張の基底には、中世国家と近代国家との間の性格、構造上の相違ということを無視した極端な時代錯誤が根づよく存在するように思われる。
中世封建国家における王のもっていた国家権力と、民主主義国家における国家権力との間には明らかに相違がある。
例えば近代国家においては、権力は強大化したという一面もあるかわり、主権者たる国民が定めた憲法によって、国家権力の及ぶ範囲を自ら制限するという点にその最大の特色があるといえよう。「人権宣言」をもつことが、近代憲法の要件であるといわれることは、このことを表わすものである。
特にその中で、重要な要素を占める信教の自由、そしてその制度的保障である政教分離の原則を無視することはできない。中世国家では、国王は、宗教に対して支配権をもっていた。
しかし、近代の進歩的な国家において国家権力は宗教に一切関与できない。そしてこのことを定めたのは、他ならぬ国主であるところの国民自身である。これによって、戒壇建立についても特別に勅許や政府の許可を必要とせず、自由にできることになったのであり、いわば信教の自由の定め自体が、従来の勅宣や御教書にかわる国主たる国民の許可であるともいいうる。
信教の自由の原則は、大聖人の仏法と、何ら抵触するものでもないし、むしろ、信教の自由あってはじめて、真の広宣流布が実現できるという現実を直視するとき、軽々に「国法による謗法の禁断」などというべきではない。
中世封建国家では、権力構造、社会構造が今日のそれより比較的単純であったといえる。その頂点に立って、国家権力が、すべてを統括することも可能であったろうし、それ故に、仏法の働きかけが、かなり率直に権力者そのものに向けられたことは否定できない。
阿部教学部長は国立戒壇を否定するため、「主権概念」を種々に“韜晦”して来たことでした。ではここで、「主権概念」についてすこしく整理しておきましょう。
「主権概念」は、西欧における歴史的経緯から“多義的”に用いられますが、一般に次の三つの意味で用いられていると言えましょう。
第一、「国家権力そのもの」 : 「日本国ノ主権ハ、本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」(ポツダム宣言 第8項)、「連合国は、日本国及びその領水に対する完全な主権を承認する」(平和条約 1条 )というときの “主権”。国民および国土を支配する国家の権利を意味し、日本国憲法
第41条にいう「国権」(国会は国権の最高機関)も同義
第二、「国家権力の最高独立性」 : 「自国の主権を維持し」(日本国憲法前文 第3項)というときの “主権”
a) 独立性: 対外的に他の国から干渉をうけない
b) 最高性: 対内的に他のいかなる権力主体にも優越する
第三、「国政についての最高の決定権」 : 「ここに主権が国民に存することを宣言し」(日本国憲法前文 第1項)、「主権の存する日本国民の総意」(日本国憲法 第1条)というときの “主権”
このように、阿部教学部長がことさら“依拠”する「国民主権」とは、「国政についての最高の決定権」において 「君主主権」に対応するところの「主権概念」の一つなのであって、けっして「主権概念」のすべてを代表しているのではないのでした。
しかるに阿部教学部長は、上記の「主権概念」の第一・第二をあたかも「中世国家」の論理にして「極端な時代錯誤」の特色であるかのように論じ、上記・第三のみを称えて“国民主権”の契機における「人権宣言」を持つことこそが<近代憲法の要件>などと論点のスリ替えを行っては、主権概念における「国家権力そのもの」「国家権力の最高独立性」としての“国家権力”の側面からあえて目を背け、「王法」の意義を矮小化するのでした。
そして、「信教の自由の定め自体が、従来の勅宣や御教書にかわる国主たる国民の許可である」と、阿部教学部長は「仏法が政治に支配され従属させられることを認める」立場から、こうして<他義をまじえ>て「勅宣並びに御教書」の条件はすでに満たされたとして、御遺命の「事の戒壇」・「本門戒壇」が“正本堂”として今や建立されるのである、と論を運ぶのでありました。
「信教の自由」ならひとり富士正系門家だけでなく、仏教・神道・キリスト教・その他新興宗教の諸宗・諸派に等しく「国家」から与えられているのでありました。“学頭”に中るの人が、「勅宣並びに御教書」の厳命を「信教の自由」にすり替えたこの事態を、大聖人がもしご覧になったらどのように御感遊ばされることでしょう。
( 平成十五年二月二十四日、櫻川
記 )
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