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日蓮本仏論者 福重照平の 信・行・学
可待時而已
可待時而已(ときをまつべきのみ)、この聖語は、弘安五年の秋もやや老けし九月のある日、鶴林の期も早近づけりと知ろしめして、聖祖
親(みずか)ら筆を執って日興尊者に与えられし一通、所謂一期弘法抄の中に記されてある。
従って年々御大会に合い奉る毎に、何処からともなくこの聖語が吾人の耳朶を打つかの如くに響いて来る、「時節を待て」、それは随分吾人も云い古し 聞き古した言葉である。
しかしそれが大聖人の仰せ言である上に 次下に「事の戒法と謂うは是也」と抜き指しならぬ釘がチャンと打ってある。
尤も事の戒法というのは五戒十戒等の事戒を指すに非ざるは万々、たゞ妙法受持を本門の大円戒(五戒十戒等の事戒に択(えら)んで之を理戒という)とする上に於て、更に理の戒法と事の戒法を分別するものにして、勅宣未だ下らざる以前に 戒壇の御本尊の南無妙法蓮華経を受持し奉るは理の戒法、国立戒壇既に成就して後の五字七字の受持は事の戒法である。
たゞ事壇(国立戒壇)と理壇(戒壇の大御本尊在します所)の相違によりて 事理の名目の立別が出来るので、一見「時」なるものが顔を出す必要が無さそうであるが、偉大なる時の力を借らねば理壇は事壇とならぬ。(略)
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加 )
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