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   日蓮本仏論者 福重照平の 信・行・学

   
信と行

 「
山外に山ありて山尽きず、路中に路多くして路窮りなし 」とかいう詩句があるが、仏法を研鑽するものの多くに 此の歎声(たんせい)が発せられる。十三宗五十幾派と路が岐(わか)れているので 行人は第一にどの路を歩行(ある)けば? と恐慌(まごつ)かされる。
 強て一の路を定め得てからが 一の峠に逢着する。登り得たれば 十州一眼かと思の外、更に高き峰が前面を圧して峙(そばだ)つ。山上に山又山と重なりて 頂を窮めて天風に駕(が)し、豁然(かつねん)として快哉を叫ぶは容易ではない。(


 吾人の信ぜし人は 日蓮大聖人である。それが聖祖の豪邁な御性格にチョイト惚(ぼれ)したのでなく、己れの情操に親しく映ずるによりての肩持でなく、その言論の一班に早呑込に共鳴したのではなく、正しく経証符合の大権威を確認しての
信伏随従である。(
 仏法を信ぜば 法華経を信ぜねばならぬ。法華経を信ぜば 末法に上行の出世を信ぜねばならぬ。誰が勧持不軽より本門寿量品の色読を体験立証して、自己の内証を一幅の曼茶羅に顕わして 愚悪の機の本尊と掲(かか)げしものか、吾人はイヤでも南無妙法蓮華経 南無日蓮大聖人と 跪(ひざま)づかずに居られぬ。

 諸大乗経は仏の御言葉を写したというより 仏の御心を如実に写し奉ったと解するが当っている。(
)仏の御言葉は迦葉阿難等の 羅漢達によりて憶持(おくじ)されたが、御心は却って滅後数百年に出世した 菩薩方によりて釈明された。霊山会上 釈迦上行の付属相承を 単なる物語視してはなるまい。
 釈尊の御心には 仏界たる仏自身と九界たる上行を 円具して欠くことはない。末法の荒凡夫に対する仏界の無縁慈が 九界の活動を五濁乱漫の時に約束するは 寧ろ当然ではないか。其の御心の中の約束が 神力品だ。その約束が体現立証されたのが 聖祖だ。全く余計な文句を 持込む隙はない。聖祖に対して合掌する能わざるものは 聾か盲である。

 吾人はこの起信に向って 何人にも誇り得る権威を持つ。しかし起信に次で来るべき立行に就て 山又山の嶮艱(けんかん)がある。道には迷わぬが 道は嶮しい、まま道は渓流に裁断されて一大跳躍を試みるべく 余儀なくされている。飛べ、飛べ、退けば千日の萱(かや)を一旦に焼き失う。飛べ、飛べ、不惜身命に飛べ。
 吾人も此までに 幾度か飛んだ積(つもり)である。蔦(つた)蔓(かづら)を力に 僅(わずか)によじ登り得た思もしている。しかしまだ 頂を極め得ない。そこに失望もあり 落胆もする。しかし更に勇を鼓して 前進する外に執るべき方法はない。びっこをひきながら 息は絶々(たえだえ)ながら 聳(そび)ゆる嶮峻(けんしゅん)目ざして歩行(あゆみ)を運ぶが ただ一つ残されたる吾人の動作である。(


 しかし此の仏法も知らず、世法も弁えぬ、この痴漢(しれもの)が 随分宗教界に幅を利(きか)しているのか現代だ。そうして誤魔化されたる信徒が 之を担ぐにいそがしいのも事実だ。どうか公明正大の聖祖を頂く我が宗門に 此の如き醜事をあらせたくない、イヤあらせてはならないのだ。僧侶も注意してほしい。在家も注意してほしい。
 
道の中に衣食(えじき)はあるが 衣食の中に道はない。出家は元より 資本家は資本家の行ずべき 仏道の中に衣食はある。労働者は労働者の 行ずべき仏道の中に衣食はある。各々その行ずべき仏道の中に 衣食問題を解決するがよい。行路難は世出二道の免れざる数とするも、幸に路を誤らず、難を恐れず憚(はばか)らずして進まば、希(こいねがわ)くは 現世寂光の宝刹を建設するも 敢て理想として終るべきではなかろう

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