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   日蓮本仏論者 福重照平の 信・行・学

   
正直であれ

 正直であれ --- 何と平凡な題目ではないか、判りきった話じゃないか。しかし時弊を矯(た)めんと志ざす上には、この古ぼけた題目を繰返さぬわけにゆかぬ。
 昔ある人がさる老和尚に 仏法の極意を問うた。和尚は済まして 「
諸悪莫作 衆善奉行」と答えた。そこである人が けげんな顔してそんな判りきったこと と囁(つぶや)いた。和尚は忽ち 三歳の児童も知っているが 八十の老翁も行う能わずと喝破したので 問うたものは見事閉口して仕舞ったそうだ。(

 よし人は欺(あざむ)かずとも 自らその心を欺かずと言い切り得るものはあるまい。世間を欺かずとも 仏神を欺き奉らずと誇り得るものはあるまい。
 我朝の八幡大菩薩は
正直の頭に宿らんと御誓いなされた。世間出世に就て正直のものなれば 祠を焼て天に昇り給うとも 如法正直のものあらば必ず 本願に赴いて常爾にその人の身に添いおわすべきである。(

 人を偽るものは その罪報を受けねばならぬ。早い話が虚言者には 人が信用を与えぬ。一時を誤魔化し得ても 永久に自己を沈めて仕舞(しまう)は 虚偽(きょぎ)である。信の一字は万事を治め、心に不安を感ずる重(おも)さは 自ら心を欺くに過ぎたるはない。一時の利慾愛欲に駆られて盗み 又は殺したるものを見るがよい。(

 妄語の罪 欺誑(ぎおう)の罪報は 此の如く重い。しかし 欺瞞を常習とするものは さまでも思わぬらしい。人に責められても 良心に責められて、経文に責められ奉りても 一向覚醒しないものが多分に存在する。此等は一闡堤(いっせんだい)の輩 と云うべきである。毒気深入して 本心を失えるものである。

 明治天皇は 「
さかしきおろかもあれど 人毎にあらまほしきは 誠なりけり」と御教(おしえ)られた。人には賢愚貴賤の差別ありとも、一の誠 --- 人を欺かず己れを欺かず 神仏を欺かざる誠意 は一同に持たねばならぬ至徳であると 勧奨遊ばされた。又 同天皇の御製に 「あさみどり すみわたりたる大空の 広きをおのが心ともがな」と いうのがおわす。
 誠意正心の根本道徳は 人に恥じず心に恥じず 神仏に恥じざる人格を玉成するから 自ら心広く体 胖(ゆたか)にして 緑澄みたる大空と冥合するものあるを 詠嘆(えいたん)ましましたものと拝察する。正直の人は 屈託することがない、畏縮することがない、神経を尖らせることがない。(


 聖祖は当時の執権並に 在世滅後の一切衆生を諌暁すべく 立正安国論を幕府に提出された。立正の二字を 難敷(むつかしく)云えば限(きり)は無かろうが 平たく云えば
正直捨方便 但説無上道、正直の正法を建立すべしとの御意である。寛尊はこの一の正の字に 三個の秘法を含む旨を釈成された。正とは妙である。妙とは正である。(
 聖祖は 世出二道に亙りて正直なる旨 自讃せられた。されば我々弟子檀那たるものも 聖祖に追従すべく是非 仏法にも世法にも正直のものたるべく 心掛けねばならぬ。正直は実に 智愚貴賤を択ばずして 守持(しゅじ)実践し得べき至極である。嘘を吐(つ)くには智慧も入用(いる)が 正直たるには智慧がなくてもよい。信を起す所に誠があるのだから 難敷(むつかしく)はない筈だ。

 しかし宗内の人にも まま心得違(ちがい)の人がないとは云えぬ。仏法の上に於て正直に正法を受持すれば 世間の上では嘘も方便 チヤラポコの誤魔化しをやっても差支ないよう 考えるものである。
此は大間違だ。世法即仏法である。出世に正直を守るなら 世間にも正直を旨とせねばならぬ
 人の為にする偽(いつわり)
--- 早い話が必死の病人に向って 平癒の道あるを告げて病苦を軽からしめんとするが如き は格別 --- 尤も再往死病のものが生を希(ねが)う為に臨終の覚悟を忘れて 妻子金銭等に執せん恐れある時は、たとい病苦を増さしむとも之に実を告げ、後世菩提の一路に転心せしむるを以って 実にその人の為にするものとせねばならぬが、臨終の覚悟は之に時間を与えるよりも 死に直面したる刹那に決定すること普通なるが故に、まず弥々の時までは偽(いつわり)で生を期待せしむるも 凡情止(やむ)を得ざる為人の方便であろう。此の如き方便は格別 として 一切正直たるが聖旨に随順する所以である。

 私福を逞(たくま)しうせんが為に お座なりの世辞を並べたり、言責を保たざる安受合に人を賺(すか)したり、虚構して人を陥れたりするが如きことあらば 確に聖祖によりて門外に撮(つま)み出さるべき因果人である。
 正直の大道こそ気楽にゆたかに 世間をも過ごし得べきものなるを、ことさらに欺瞞の小路抜裏(ぬけうら)を徘徊するは さりとは不心得千万の徒輩と云わねばならぬ。堂々たる議論を闘わすことはなく、密々の座談によりて人を操縦せんと企つる如きは、彼の不正直者の常套手段である。(


 それから怯儒(きょうだ)からも 不正直を生むらしい。怯儒から生ずる不正直は 偏執や貪欲から来る不正直と違って 聊(いささ)か同情に値いする。気の弱い人が 他の誘惑を退く能わずして 知りながら厭々ながら悪事を共にする。不正直な真似をするのは 気の毒なものだ。しかし考えると 怯儒なるが故に不正直なるに非ずして、正直に徹底せざる故に怯儒なりとも云い得る。孔子の弟子の曽子は その意見であったらしい。(

 根本原則として お互に正直をモットーとすれば 争いはない筈だ。仮令(たとえ)争議が起っても 之を解決するに手間暇いらぬものなるを 断言するに躊躇(ちゅうちょ)せぬ。教界の紊乱(びんらん)にしてもそうだ。各自が自他の偏執を捨て 諭師人師の所説を措いて 正直に教々を引合せて見るがよい。たとい 自家の智力足らざるものありとも、天台伝教並に聖祖が 明白なる決判ある以上、優劣の分別を誤る筈はない。(


 正直者は 自ら自他格別の計見(けいけん)から 離れ得る。醜なるものは我にありても之を醜とし、美なるものは人にありて之を美とする。職業地位の上下を択ばず 唯(ただ)自他を各(おのおの)その適する所に置かんとするから イザコザは起らぬ。
 不正直者は そうはゆかぬ。我にありては一切之を善とし、人にありては一切之を醜とする。唯 地位と職業の高下を論じて 材適不適に関心しないから ゴタゴタが絶えぬ。あわれ 聖祖門下の僧俗を初めとして、我が国民も外国人も 正直の至徳を守れかし。されば教界安寧 四海又静謐(せいひつ)にして、遂に
広宣流布の聖願も満ち、現世寂光の楽土を実現するであろう。

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 福重師の「
仏法の上に於て正直に正法を受持すれば 世間の上では嘘も方便 チヤラポコの誤魔化しをやっても差支ないよう 考えるものである。此は大間違だ 」の言葉、重しとすべきでありましょう。
 仏弟子たる者、世間にも正直を旨とせねばなりますまい。いわんや仏法に於いてをや、でありましょう。「
千年のかるかやも一時にはひとなる、百年の功も一言にやぶれ候は法のことわりなり 」(兵衛志殿御返事)と。

                          ( 平成十五年七月六日、櫻川 記 )


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