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   日蓮本仏論者 福重照平の 信・行・学

   
地 震

 関東大震災から但島の地震と続き、吾人は二・三十年の内に日本が大地震に襲わるべきを 予期しなかった。(略)
 どうか 天気予報によりて暴風雨の来襲を予知し得る程度に 地震学を進めたいものである。恐らく 遠からずこの方法は発見さるるであろう。又続続 耐震家屋の建築によりて その災害を軽減されるであろう。

 しかしかくしても 遂に天地自然の大威力を圧倒して 全然吾人を安穏の地位に置き得ることは 幾千万年の研讃を経ても猶且(なおかつ)不可能のものたるを思わしめる。(略)
 科学の方では法界と 飽まで自他の関係に置く。だから個人の罪業が 天変地夭となって顕われるなどとは思いも寄らぬ。天変地夭は 天地独爾にそうなる因あり縁あって そう成ったと解釈している。

 しかし仏法では 個人、その個人の集団たる国家社会の罪業の増上、果として天変地夭は出現するものだという。今吾人は 仏説を信ずるが故に この両者の関係を科学者の如く 冷視するわけにはゆかぬ。
 従って此等の災害を軽減する手段に就ても 震災を前知することと完全なる耐震家屋を有することよりも、個人国家社会の罪業を減殺するを以って急務と感ずる。

 しかし此は強ち 仏法を信ずるもののみの感想ではあるまい。既に先年の関東大地震を以って 人心の浮華軽佻(ふかけいちょう)に趣きしより起る天譴(てんけん)として 大多数のものは之を受取た。仏法の道理からではなく、直覚的にそう感じた。科学万能の現代人にも 矢張不滅の仏性はあるのである。時ありて隠れたる仏性が輝くのである。(略)
 之を天譴と感ずる情と 之を試練と知る心は別のようだが 決して別ではない。天譴と感ずる時 そこに改俊がある。試練と知る時 そこに奮迅がある。改俊や奮迅は皆 吾人仏性の顕れではないか。(略)聖祖も正嘉文永の天変地夭を以って 一には之を以って謗法の国土に対する天の責となし、一には之を以って本仏出世 大法興隆の前表とせられた。大謗法と大白法の出現は 時を同じうして相(あい)表裏するものである。決して恐るべく 避くべきものでもない。(略)

 人が自己を玉成するには どうしても自己を艱難(かんなん)の炉中に投じて 之を鍛冶(たんや)せねばならぬ。常に順境にばかり処していては心身共にダラケ切って 決して自己を玉成することは出来ぬ。順境は喜んで之を迎え、逆境は忌て之を避けんとするが人情である。しかし
順は却って自己を賊し 逆は或は却って自己を助くる所以を知らば、順も喜ぶべきに非ず 逆も厭うべきものにあらざることになる。
 聖祖は御義口伝に「
今 日蓮等の類いの修行は 妙法蓮華経を修行するに 難来るを以て安楽と意得可きなり」と仰せられた。この一段はどうも 通途の人情には協うまい。稲荷清正公妙見宮と やたらに雑乱勧請して平気でいるものは元より、正境の御本尊たる妙法大曼茶羅に向って無二の信仰を励むものにしてからが 朝夕の勤経に息災延命 如意満足とこそ祈れ、諸難縦横 如説修行なさしめ給えと願い出るものは 恐らく見当りそうもない。

 御題目を唱うれば災難に遠(とおざ)かるとか、寝転(ねころん)でいても金儲(もうけ)が出来るなど思うては
大間違である。御題目は災難を打割る名刀だから 災難に遠のいては切味を試すことは出来ぬ。御題目は怠惰者(なまけもの)を打つ鞭である。寝転でいては金銭が転り込むどころか 却って自分が敲(たた)かれねばならぬ。御題目は災難際(よけ)のお守でなくて 災難を解決する利刃(りじん)である。御題目は金銭を転がす機械でなくて 気力を鍛冶する鉄鞭(てつべん)である。
 災難に眼を付けてはならぬ、災難に打勝べき人間に眼を留めねばならぬ。金銭が勝手に転げ込む筈はない 金銭を引寄る活動が大事だ。ここの一歩を誤るから 折角の御題目の御利益を味うことも出来ず、又 棚牡丹(たなぼた)式の風呂敷を拡げる 怪しげな宗教の餌食となって仕舞う。(略)

 まだまだ
本宗でも所謂 御利益信心の人が多い。そうでない人は 大抵諦めの信心をしている。あきらめということは 決して悪くない。しかし ただ諦めただけでは消極的で、聖祖の勧奨し玉う信心とは云えない。破壊されたる事物に対する諦めと同時に 積極的な復興新造の勇気を奮い起さねば嘘だ。イヤ 諦めた贋(にせ)聖人は 全く以て聖祖の一門ではない。(略)
 吾人は最高の仏教によりて 精神鍛冶をやらねばならぬ。吾人は
物質文明の利害共に其の極に達せし時 寿量文底の大法が広宣流布の序の調を終て 破の調に入るものなるを 世界の趨勢に照して疑わぬ。物質文明の所産たる毒素は 神経衰弱である。その増上果が地震であると 吾人は直感せずにはいられぬ。

 聖祖は正嘉の大地震を以て 念仏真言等謗法の罪業に依て起す所の天災と断ぜられた。しかるに今日 二宗の僧俗がその各の本尊教義に対する執心は 昔のそれに比して頗る薄らぎつつある。(略)恐らく今の人が一様に犯しつつある罪業は
唯物主義に偏し断無の見に住して 無始の本仏本法を嘲笑する罪業であろう。(略)
 神経衰弱は己身の地震であり、地震は大地の神経衰弱である。吾人は誓て 南無妙法蓮華経を口に唱え心に存し身を行ずることによって この身体と国土の災難に打勝たんと庶畿するものである。
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