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    先生は日蓮大聖人の再誕か?

 あるとき、『太白蓮華』の昭和四〇年ごろのある箇所に「池田先生の一切の振る舞いを仏と拝し」とあるのをお見せしたところ、「あいつがいま、こういう心境でいればいいのに」とポツンと語られたことがありました。“アイツ”といわれた人は、いま公明党の議員です。

 私は昭和三七年ごろ、私の先輩から、「
池田先生の振る舞いを仏と拝していくと、先生の行動が一切わかってくる」と教えられたことがありました。私も、そのようにかたく信じておりました。
 昭和五二年ごろだったか、学会本部の近所の寿司屋で、原田稔氏(現副会長)と野崎勲氏(現総合青年部長)と私の三人でひそかに語り合ったことがありました。

 原田氏と野崎氏は「
池田先生は日蓮大聖人の再誕であると思う」と主張していました。私は「いや久遠元初自受用身の再誕だろう」と言ったのです。
 このように、先生の後継ぎといわれる中枢の人々でも先生を御本仏と考えていたのです。
“現代仏陀論”を書きたい」「ウチは先生という人本尊がおられるから有難い」というのも、昭和五四年の秋にいたるまであった考え方なのです。

 先生の、仏としての圧倒的演出に対して、最近になって機関紙で「
私を仏と思ってはならない」といかに語ってみたところで、長い間会員の心の中に根をおろした(本当は私たちがそう思わせるようにしてしまったので申し訳ない限りですが)ものを、容易に払しょくできるものではありません。
 当の先生ご自身が、ご自分を相対化されるのをひどく恐れられているのですから、どうしようもありません。
 「
言葉などいくらでもある。振る舞いが大事なのだ」と常々いわれる先生。まず、それでは言葉よりも先にご自身の振る舞いそのものから正されてはいかがなものでしょう。

 それにしても「
私が創価学会そのものだ。創価学会の財産はぜんぶ私のものだ」という組織の私物化の論理は、社会的にも不健全であり、また仏法上からいっても根本的に改めなけれはならない発想です。創価学会は、どこまでも会員のためにあるのであって、池田先生のためにのみあるのではないと思います。




 側近にまで、 「日蓮大聖人の再誕
」であるとか久遠元初自受用身の再誕」であるとか、「現代の仏陀」であるとか「人本尊」であるとか本気に思わせる事、これ第六天の魔王その身に入って池田大作会長の「形は人なれども力は第六天の力なり」のなのでありましょう。

 
さてそして、組織の私物化が諸悪の温床であること、原島元教学部長の言う通りでありましょう。そして宗門も講中もまた、その轍を踏んではならないこと、言うまでもありません。



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