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 先生にとっての目の上のコブは宗門だった

 なお、日達上人を怒鳴りつけた言葉の中に「
学会を奴隷にしないで下さい」との発言がありましたが、この種の発言は、先生からいたるところで聞かされました。

 ときには「
まるで公明党の奴隷じゃないか」と仰言ったこともあります。いまは宗門との関係でいえば、宗門の言いなりになっていると学会は宗門の奴隷になる。法華講になる。だから宗門を監視し、牽制しなければならないということです。

 開かされた私たちは、“奴隷”という言葉の余りのどぎつさにその真意をはかりかねていましたが、いまにして思えば、要するに池田先生ご自身の被害者意識(それも装った姿かもしれないが … )の産物だったのです。

 先生の自己演出は、会員を一時的に巧みにごまかせても、常に客観的に先生の行動を見る立場にあった宗門のご僧侶方からすれば、その虚構性はたちまちに見破られてしまうのです。先生にとって
目の上のコブのような存在は、実は宗門だったのです。

 宗門を外護するとの表向きの発言の裏には、こうして常に自らの行動を相対化しようとする(絶対化を阻む)宗門への警戒を怠ってはならないという
猜疑心や被害者意識があったのです。
 したがって、学会を宗門の奴隷にしないでくれとの嘆願は、そのまま、裏返せば先生ご自身のやりたいことをやらせてくれ、先生のやる事はすべて肯定してくれ、という虫のいい甘えの意味がかくされているといわざるを得ません。

 はっきりいえば、これまでの一連の御宗門との問題も、その根源をつけば先生自身の宗門に対する被害者意識の反映にすぎません。被害者意識は、容易に加害者意識へと転じ、それと支配者意識が結びついたときに、どのようになるでしょうか。やがての五二年度路線は、それが一時に爆発したのであり、それ以前からくすぶっていたのです。

 話は変わりますが、先生は「
会長(池田先生)本仏論はない。皆、御本尊を拝んでいるのであって、私を拝んではいない」といわれます。たしかに会長本仏論といった“論”としての体系があったわけではありません。また池田先生を拝んでいないかのようにみえます。しかし、私は池田先生を絶対化せしめた共犯者の一人として、このことだけははっきりいわなくてはなりません。

 多くの会員の心には、御本尊と池田先生だけは絶対であるというものがあります。私もそう思っていました。また、御本尊の前に先生のお写真を置いて拝んでいる人もありました。それでも、まだ御本尊に先生の姿を浮かべて拝んでいる人々が多いのです。

 (略)




 原島氏の 「やりたいことをやらせてくれ、先生のやる事はすべて肯定してくれ、という虫のいい甘えの意味」という指摘には、さすがにするどいものがあります。

 また 「被害者意識は、容易に加害者意識へと転じ、それと支配者意識が結びついたときに、どのようになるでしょうか。やがての五二年度路線は、それが一時に爆発したのであり、それ以前からくすぶっていた」という指摘も、その通りでありましょう。



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