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言論出版妨害事件の舞台裏
話は元にもどりますが、いまから十年以上前に遡ります。
いわゆる創価学会・公明党による言論出版妨害問題が起こり、池田先生への批判記事を載せた出版物を回収したり、権力をつうじて圧力をかけたということで、国会でこの間題がとりあげられ、先生の国会喚問まで取り沙汰されるにいたりました。
この背景には“池田先生は絶対でなければならない、無謬でなければならない”という考え方があったのです。
これが仏法上からいってもどれほど誤っているかは、後述することにします。現北條会長や公明党の幹部、聖教新聞社出版総局等がその阻止に総力をあげたのです。
なにしろ先生は、異常なほど国会喚問を恐れられていました。当時、私は、先生の側にいましたのでそのころの様子はつぶさに見て知っております。私としても、先生を国会でさらし者にされることは絶対に回避しなければならないという心でいっばいでした。
昭和四五年春、ある雑誌には「私は自殺したいくらいです」とその心痛を語っていますが、そんな先生に対して、一面あの七百年前の文永八年九月一〇日、竜口法難の二日前に毅然と現在の法廷ともいうべき問注所で、裁く側の平左衛門尉をかえって叱咤された御本仏日蓮大聖人の尊いお姿と対比し、大恩人にこんなことをいっては申し訳ないのですが、これが池田先生の素顔かと、内心疑念がわいてこないでもなかったのです。
もっとも、この発言は何とかうまくここを切りぬけたいために、同情心を買うための演出であったことが、最近になってよくわかりました。
(略)
原島元教学部長の、「異常なほど国会喚問を恐れられていました」、「これが池田先生の素顔か」という、素直な言葉が語られています。
元側近ナンバーワンを自任する藤原行正氏の「池田大作の素顔」では、このとき(昭和四十五年二月初旬)の池田会長の創価学会・箱根研修所への逃避行の様子が語られています。
原島元教学部長は自分のこの著書ではふれていませんが、藤原氏によればこの池田会長の逃避行に同行したのが、原島嵩教学部長(当時)らの若手側近数人であったことでした。原島氏は、のちの月刊ペン裁判の証人として「四十五年の言論出版問題の時は、会長になってはじめての経験で(池田氏は)狂乱状態のような時もありました」と述べたことでした。
かつて戸田会長はむしろ国会証人喚問を望んだことでしたが、池田会長が当時どれほど国会証人喚問を恐れたかということ、その逃避行の最中に「狂乱状態」の醜態を演じたとの、原島氏の証言からも知られます。
こうした事情が池田会長をして、御遺命の「国立戒壇」否定へと向かわせたことでした。そして宗門は重大な御遺命違背と知りながら、唯々諾々とこの池田会長の命に従ったのでした。
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