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一信徒団体がなぜ独立宗教法人
になれた?
創価学会は、戸田城聖の発想による軍隊的な組織と戦闘的な布教方法で、昭和二十年代の後半から急激に勢力を伸ばした。戸田城聖が死んだ昭和三十三年四月の段階で、百三十万世帯の勢力となっていた。
この間、昭和二十八年には、創価学会は独立の宗教法人となっている。
日蓮正宗の一信徒団体にすぎなかった創価学会が、なぜ独立の宗教法人となれたのか、なぜ日蓮正宗がこれを許したのか、今でも疑問が残る。
一方の日蓮正宗は、日蓮大聖人の直弟子の六老僧の一人で、大聖人の後継者として身延山久遠寺の貫主となっていた日興上人が、地頭の波木丼実長と不仲となり、身延を離山した後、大石ヶ原に開いた大石寺を総本山とする、日蓮宗の宗派である。
日興上人の門派は、興門派或いは富士門流と呼ばれているが、日蓮正宗は明治時代に他の興門派とも別れて大石寺を総本山とする宗団を形成した。
日蓮正宗では、大石寺に秘蔵される一間浮提総与、本門戒壇の本尊を根本とし、日蓮大聖人を本仏と定め、日興上人以下、代々の法主の血脈付法の正統を唱える。
教義や化儀について触れることは私の職分ではないし本書の目的ではないから、省略する。
こじんまりした日蓮正宗という教団は、寺院を中心に僧侶と寺院に所属する法華講という信者の組織とで成り立っていたが、明治初期の廃仏棄釈運動、戦時中の宗教行政や神道主義による弾圧、戦後の農地解放等々、仏教教団の苦難を味わいつつ、戦後まで細々ながら維持されてきた。
戦後、信教の自由と占領軍の宗教政策を追い風に、新興教団が勢力を伸ばす中で既成教団は出遅れ、取り残された。日蓮正宗も同じだった。困窮が続いた。
その日蓮正宗にとって、新興教団の後を追うようにして世に出て来た創価学会は、ある面で救世主のように見えたに違いない。創価学会の教勢拡大とともに、多数の会員が大石寺に登山し、また、末寺は会員の授戒や冠婚葬祭で賑わった。
創価学会は、日蓮正宗、大石寺の信徒団体であることを強調し、「新興宗教ではない」と、特別の権威づけに利用したし、日蓮正宗としては、何よりも疲弊していた台所が潤った。 両者は、持ちつ持たれつ、理想的な補完関係と見られた。
だが、実際は、日蓮正宗と創価学会の関係は、当初から必ずしも円滑ではなかった。戦時中、日蓮宗の合同を主張した小笠原慈聞師という僧侶に対し、「牧口先生を死なせたことの仇討ちだ」と称して青年部による集団暴行を行なったり(いわゆる狸祭り事件)、大石寺の所化頭を境内の潤川に投げ込んだりするなど、日蓮正宗に対して集団の力で威圧を繰り返している。
僧侶達や古くからの法華講員の中には、創価学会の“現世利益”を正面に打ち出した布教の仕方や教義解釈に対して、批判的であったり拒絶反応を示す者も少なくなかった。だが、数と力が次第に圧倒していった。日蓮正宗と創価学会の関係は、日蓮正宗が権威の上では上位にあるにもかかわらず、創価学会の方が支配し、動かすようになっていった。
創価学会の宗教法人認可に当たっても、日蓮正宗は必ずしも乗り気ではなかった。できれば許したくない、という空気の方が強かった。それを、創価学会が力と謀略で押し切ったのである。戸田城聖の指示で、青年部幹部は、日蓮正宗の高僧に対して女性を近づけ誘惑させた。その女性が懐妊すると、戸田城聖はその高僧を責めた。
「 他人は許しても、この戸田は許しませんぞ 」 戸田城聖はそう言って、ひたすら謝る高僧を、持っていた数珠で何度も打った。その席に、池田大作と藤原行正が同席していた。
このような策略を用い、一方では青年部の暴力をちらつかせ、多数の会員を擁する経済力を使って、戸田城聖は、日蓮正宗側を押し切って、創価学会の法人化を認めさせた。その際、日蓮正宗側は“信徒団体としてのあり方を守ること”等三項目の条件をつけて、抵抗の跡を残した。
後に、ある信者が、六十六世日達上人に対して、「日達上人が庶務部長の頃、学会に懐柔されて、管長印を勝手に使って創価学会の法人化を認める手続をした」と中傷したことがあった。
我々は、とるに足らぬことだと考えて、放置するよう進言したが、日達上人は、「私は、絶対にそんなことはしていない。第一、創価学会の法人化は私の意思で行なったことではない。すべて、当時の管長の意向で行なわれたことだ。こんな中傷は、後世のため許しておけない」と異常なまでのこだわりを見せ、名誉毀損で訴えた。今にして思えば、庶務部長当時、創価学会の横暴に押し切られた宗務院の口惜しさを表現されたのだろうと思っている。
戸田城聖はいろいろと尤もらしい口実を設けたが、信徒団体を独立の法人にする必然性はまるでない。要するに、戸田ら学会幹部が日蓮正宗の干渉を排して勝手にふるまいたいというのが本音であった。
わたしは戸田会長の功績を多とする者ですが、ややもすれば粗野な一面も見られたことでした。
山崎元顧問弁護士が語るように、創価学会の独立法人化において、宗門への策略・暴力・経済力のちらつかせ、といったことがあったのでしょう。
その戸田会長の負の遺産をまるごと継承したのが、池田会長であったことでした。そしてまたそれこそが、御遺命歪曲の伏線となったことでした。
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