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言論妨害の動かぬ証拠
弘達氏との初回の二者会談は物別れとなった。私が持ち出した五つの依頼項目に関して相手の返事はすべて「ノー」であった。自作に勝手なイチャモンをつけてくるな。そんな不快の表情を氏は隠さなかった。
その四日後、今度は都内のホテルで出版元の「日新報道」の代表者二人と合ったが、この話し合いも不調に終わった。当方の申し出は著者に対してと同じ内容だった。
当時の手帳では、弘達氏への二度日の交渉は初回訪問日から二週間後の九月十四日となっているが、その前日、私は池田から本部に呼ばれている。その場にはやはり北条、秋谷が一緒にいたが、二人は池田と私のやりとりをただ黙って聞いているだけであった。
「今回の一件はもうこれ以上の無理押しはやめたほうがいい。強引にやれる相手じゃないですよ」 私は池田に向かって結論を先にいった。そのあと自分の判断を説明しかけたのだが、池田がそれを押さえた。
「いや、藤原君の判断なんかどうでもいい。もう一回行ってこい」
「もっと強引に頼みこめ。きみのやり方は手ぬるいんじゃないか。向こうからやられてもいい覚悟で徹底的にやってこい」
脅しでもなんでもいいからやれ、それができないのは自分の身が可愛いからだろう。そんな響きが言外に感じ取れた。この池田の言葉にカチンときた。
私は自分が「鉄砲玉」であることを承知していた。しかし実際に渉外に動いた感触から今回の問題は強引な手を打ちすぎると学会へ悪影響を及ぼすとの判断を強めていた。
『創価学会を斬る』の著者・藤原弘達氏は当時、四十八歳。マスコミ界の売れっ子評論家として天下御免の毒舌、鋭い社会時評で鳴らし、また明治大学で教鞭をとる気鋭の政治学者でもあった。
学会側にとつては手強い相手である。下手に深追いして、今回の言論出版妨害が社会問題化したら元も子もない。しかし、池田は私の意見に耳を貸そうともしなかった。(略)
「そういういい方はないでしょう! あなたは都会議員をバカにしているのか」 私も気色ばみ、ケンカ腰の言葉を返した。そのまま相手が怒って「おまえなんかと絶対に会わん!」と最後通告してくるならそれでいい。池田にそのまま報告するまでだ。頭の隅にそんな計算もあった。ところが、弘達氏は急に「いいよ、じや合おう」と折れ、急転直下、翌十四日の再訪を約束する事態となった。
あとから考えれば、氏が態度を変えたのはこちらへの譲歩ではなく、しつこい相手に一杯食わせてやろうとの魂胆だったようである。もう一度会って、その会話をテープに取って動かぬ証拠とし、横暴きわまる創価学会の圧力を世間に公表してやる。弘達氏の頭にその考えが浮かんだのは、おそらく私との電話中だったと推察する。
その日、私は再び本部へ向かい、弘達氏との約束の一件を池田へ直接報告した。「今度は秋谷も一緒に行け」 池田は同席していた秋谷にそう命じた。秋谷は翌日、名古屋出張の仕事があるとかで、「名古屋の帰りに相手の家に寄りますから、藤原さん一人で先に行ってください」と、私へいった。
のちに弘達氏と私、そして秋谷の“密談”が録音された実物テープの存在が公表された際も「藤原さん、悪いけど表へ出てくださいよ」と、要領よく逃げを打ったが、最初から彼は池田に命じられたので仕方なく同行するといった表情であった。
前日にそんないきさつがあり、九月十四日、藤原弘達宅訪問はまず私が先着した。三十分ほど遅れて秋谷もやってきた。
この時の約一時間四十分におよぶ三者の会話内容が弘達氏の準備した隠しマイクで録音され、「創価学会による言論妨害の動かぬ証拠」となる。
しかし、この「極秘テープ」が誌上公開によって世間へ知れわたったのは問題の三者会談からすでに六カ月が経過した時期だった。
それはなぜか。創価学会の言論弾圧自体はのちに国会で各党の憲法論議まで呼び、世の耳目を集めたほどの重大事件だったが、そのテープそのものはそう衝撃的な内容ではなかったからである。
私や秋谷の発言が法に抵触し、あるいは著者への脅迫的内容を含んだ衝撃的なものであったなら創価学会攻撃の第一級材料となったはずである。一歩間違えば脅迫、圧力と受け取られても仕方のない交渉事に変わりはなかったが、こちらもその点を十分に注意して言葉を選んでいた。
それでも勇み足があったなら、弘達氏は会見直後、即座に公表されたのではあるまいか。
少なくとも、テープの段階ではのちに騒がれたような憲法違反云々といった次元の問題ではなかった。喧嘩上手な藤原弘達氏はそのへんを心憎いほど心得ていて、まずテープの存在だけを世間に暴露する作戦に出た。
「創価学会による言論弾圧の重要証拠が私の手元にある。これは言論の自由を認めた憲法にも違反する行為であるから、国会で取り上げろ」
氏はマスコミにこう訴え、自らも月刊誌や週刊誌で積極的に論陣を張ったため、世の中は騒然となった。マスコミ各社は藤原弘達氏が秘蔵する極秘テープをめぐり、激烈な争奪戦を展開した。最後に『週刊朝日』が凱歌をあげ、同誌四十五年三月二十日号に掲載されることになった。
この予想外の事態に腰を抜かすほど仰天したのが池田大作であった。学会側は発売と同時にこの号を十万部以上買い占めた。言論出版妨害の事実から一般学会員の目をそらしてしまえ、というのが雑誌買い占めを命じた池田の狙いであった。
創価学会の言論出版妨害事件の<顛末>が、その当事者の言葉で克明に語られています。
自分が「鉄砲玉」であることを承知していた藤原氏の、自らは最善を尽くしたが親分・トップの愚かな判断ミスが、むしろ傷を拡げたことへの無念の思いが伝わってきます。
そしてすでに故人となった藤原弘達氏の、学者とは思えない<喧嘩上手>の様子と、自ら「鉄砲玉」に命じて喧嘩を売っておきながら、いざ事が公になると・とたんに「腰を抜かすほど仰天」する池田大作会長の姿が、わたしたちにもこうしてよく知られます。
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