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「おい、謝りに行こうかな」
藤原弘達氏がテープの存在だけを天下に公表したことで、池田大作は「大変なことになった」と血相を変えた。
下手をすると創価学会の最高責任者として自分が社会的糾弾の矢面に立たされる。池田はまずその不安に怯え、「おい、大丈夫か!」 オロオロした声をあげた。
持ち前の厚顔としたたかさで学会内部にニセの「池田神話」を広め、超ワンマンぶりを発揮しながら、一歩世間へ引っ張り出されると臆病そのものという地がモロに出た。
一方、相手の藤原弘達氏はなかなかのクセ者だった。
氏は最初から池田に攻撃のターゲットを絞っていたらしく、実に巧みにテープを武器に使った。テープの存在を匂わせながら実物をなかなか見せないのである。
直接の当事者だった私は内心で苦笑する思いだった。問題のテープが公表されるまでその内容を知っているのは相手の弘達氏と私、秋谷の三人だけだったが、言論弾圧だ、と大騒ぎされるほどの言葉を口にした覚えはないし、むしろ遠回しで温和な発言に終始したという確信さえあった。
そのことを池田に伝えていた。私の言葉を信用していれば話は簡単だった。この段階で、当事者の私なり秋谷なりが正式に謝罪し責任を明らかにすれば、学会組織まで累が及ぶことはなかっただろう。
実はテープの一件が暴露された直後、学会上層部で善後策を協議した。北条、秋谷、私の三人に竹入と矢野なども加わり、その場で「謝罪すべし」という一つの結論が出ていた。
この時は私もハラを決めていた。テープをとられた一件は自分のミスだ。私が頭を下げ、学会側の要求を撤回した上で都議を辞任する。要するに学会側に言論妨害の意図は一切なく、私の独断でただお願いに上がっただけという事態収拾案だった。諸般の情勢からそんな形で当事者が早目に社全的責任を明らかにするのがもっとも妥当な解決策ではないか。最高幹部の間ではその方向で意見の一致をみていたのである。(略)
もっとも、この最高幹部間の取り決めは池田の勝手な先走りでご破算となった。最初は私と秋谷を鉄砲玉に使っておきながら、池田は下手な手を打っていた。私たちの動きとは別に学会系の潮出版社など出版関係、雑誌関係の幹部たちを動員して、「おまえらも全力を挙げてあの本の出版を潰せ」と命じてしまっていたのである。
そこで当時の潮出版社幹部だった池田克也(現衆議院議員)らが大手取次店各社、大手書店などに手を回していた。もし新刊書の『創価学会を斬る』を取り扱うなら学会系の潮出版社の刊行物をすべて引き上げることもありうるゾ。そんな脅迫めいた裏工作が九月中旬から連日展開されていた。
そして、テープの一件が暴露されたのは池田がこの指示を出した直後であった。池田一人が悪あがきを繰り返し、キズはどんどん深まっていったのである。(略)
問題はすでにテープだけではなかった。いずれ取次店や書店への学会の圧力まで暴露されるかもしれない。池田は気を揉み、心配のあまり一種のパニック状態に陥っていた。
「おい、謝りに行こうかな」 池田が配下の人間を集めてこんな弱気をのぞかせたのはこの時期だった。(略)
もしこの時、幹部のだれかが池田に謝罪を勧めたとしよう。その場では彼は黙って聞いている。しかし事件のほとぼりが冷めた三年後、五年後に必ず仕返しされるだろう。
「あいつはオレに頭を下げさせようとした。チキショウ!」 池田大作の執念深さを幹部たちはみないやというほど知らされていた。
まさしく本の題名である 「池田大作の素顔」が、側近ナンバーワンの口から描かれています。
こうして昭和四十四年九月から十月、池田会長はパニック状態に陥っていたのでした。
「超ワンマンぶりを発揮しながら、一歩世間へ引っ張り出されると臆病そのものという地」の姿は、佐渡御書の「おごる者は必ず強敵に値いておそるる心出来するなり。例せば修羅のおごり、帝釈にせめられて。無熱池の蓮の中に小身となって隠れしが如し」を彷彿とさせます。
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