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最悪の手、田中角栄登場
強い不安に駆られた池田は事態の打開を焦るあまり、さらに最悪の手を打った。劣等感の強いこの男はあきらめが悪い。その上に世間を知らないから、自分の力を過信してなおのこと強引に無理を通そうとした。
そこにゴマすり幹部連中が余計な手を貸したから話がややこしくなった。これはのちに創価学会が問題を大きくしていく時のお定まりのパターンともなるが、この言論出版妨害事件で助っ人役を買って出たのは公明党委員長(当時)の竹入義勝だった。
「おい、どうしたらいい。何か手はないか」 池田からそうもちかけられた時、竹入がある大物政治家の名前を口にした。「じゃあ、自民党の田中角栄幹事長を使ってモミ消しますか」「おお、その手でいこう。よし、やってみてくれ」
進退窮まっていた池田大作は自民党の実力幹事長の名に飛びついた。(略)
四十四年十月十五日、赤坂の料亭「千代新」で藤原弘達氏と田中角栄氏との第一回目の会合がもたれた。これは弘達氏が旧知の相手の顔を立てたにすぎず、田中幹事長が一役買った初回の仲介は不首尾に終わった。
池田大作が三たび失態を重ねたのはこの時だった。池田は付人と一緒に問題の料亭のすぐ隣りの部屋に身を潜ませ、藤原・田中会談の話の成り行きにこっそり聞き耳を立てていたのである。
ところがその姿を係の仲居さんに目撃され、のちにこの事実は当時サンケイ新聞政治部記者だった俵孝太郎氏によってシッパ抜かれるというオマケまでついた。
十月二十三日、自民党の実力者・田中幹事長と弘達氏との間で二度日の会見がもたれた。しかし、この仲介も弘達氏側が蹴る形で物別れとなる。
それは当然だったろう。池田大作は一方で田中幹事長に仲立ちを依頼しながら、他方では潮出版幹部らを動かして大手取次店や広告代理店への圧力をますます強化させ、さらに同社や聖教新聞の業務部員を総動員。都内の書店を回らせ、裏からの圧力を強めてもいた。「学会に批判的な『創価学会を斬る』を扱うな。もし、おたくがあの本を扱えば学会推薦の書物を遠慮してもらうかもしれない…」
また、この時期は藤原弘達氏の自宅をめがけて学会側からのイヤガラセの手紙、無言電話、脅迫電話が昼夜を分かたず殺到していた。池田は相手をねじ伏せるためにあらゆる手を使った。しかし、その圧力を激しくすればするほど著者側は態度を硬化させた。(略)
そして十二月。共産党機関紀『赤旗』に自民党の田中幹事長が創価学会の言論弾圧に手を貸したという弘達氏の談話が掲載され、このころから新聞、雑誌などマスコミ各社の動きが騒然としはじめるのである。
事態の悪化に直面して、学会上層部は連日のように善後策を協議していた。悪あがきを繰り返す池田になんとかブレーキをかける必要がある。大幹部全員の頭にその思いが強かった。何度か話し合った結果、竹入がある謝罪案を口にした。要するに今回の問題はこちらに身に覚えのあることだから、相手側と世間に対して、「これから気をつけます」と、頭を下げ、とにかく事件を収めようという発案だった。
事件解決を優先させるにはそれがもっとも常識的な手であった。そこで幹部間の最終意見がまとまり、学会ナンバーツーの北条さんが池田大作へ最高会議の結論を報告した。ところが、池田はここで首を横に振ったのである。
「絶対に事実無根で押し通せ!」 池田は北条さんにこう厳命し、その指示が北条さんから今度は竹入に伝えられた。池田独特の性格がまた顔を出したのだ。もし一度でも創価学会会長たる者がミスを認めたら自分の権力の座が危くなると不安でもあったのだろう。この男は自分の犯した誤り、間違いを決して認めようとしない性格の持ち主であった。
池田会長が自ら身を潜めて、隣室の藤原・田中会談に聞き耳を立てていたこと、そしてそれが発覚したことが、やがて後の山崎師団による組織的盗聴という手段に発展したのでしょう。まさしく、創価学会のお家芸たる盗聴犯罪のルーツを、ここに見ることができます。
そしてまたもう一つのお家芸は、イヤガラセの手紙、無言電話、脅迫電話等、でありました。
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