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すべてが許される「生き仏」
たとえば池田のふしだらな女性問題が世間で取り沙汰された時、学会員はデタラメだと教えられ、「あの立派な池田先生がそんな真似をなさるわけがない」と自分を納得させた。
また池田の専用施設が全国に数百ヵ所あっても「池田先生は別格だから当然だ」と受け止める学会員心理も、池田を「仏」と見るところから生まれるものである。
学会員たちは「生き仏」池田一人のためにあらゆる犠牲に甘んじ、生身の池田大作は貪欲にそのうま味だけをむさぼる図式だ。(略)
「仏」になった池田大作は平気でウソを重ねた。学会内の池田崇拝を悪用してやりたい放題のデタラメをやってきた。
五十四年四月、池田大作はいわゆる「本尊模刻」事件によって会長辞任に追い込まれた。この事件ほど池田のニセ宗教家ぶりを象徴する出来事はない。
日蓮正宗の信仰はご本尊に向かい、題目を唱えることが基本である。日蓮大聖人が残されたご本尊は日蓮正宗の宗規によってその取り扱いがきびしく定められている。ところが、調子に乗りすぎた池田大作は勝手にご本尊のニセモノをつくるという最大の罪悪を犯してしまったのである。
池田は聖教新聞社の地下室で同社カメラマンに命じて、ご本尊の写真を撮らせ、それをもとに東京浅草の仏具店赤澤朝陽系の彫刻師たちに板マンダラを複製させた。このたくらみは宗教上では日蓮正宗七百年の歴史はじまって以来の重罪であった。
「創価学会会長を辞任しないなら、池田大作を日蓮正宗から破門する!」と、時の総本山大石寺の日達猊下が激怒した。日蓮正宗を破門されたら、創価学会にもいられない。そうなると池田はタダの人。あわてふためいた池田が謝罪した上、結果的には会長を辞任して名誉会長へ退く形を取らざる得なくなったのである。(略)
日蓮正宗法主の日達上人は創価学会三代会長・池田大作の頭を押さえられるただひとりの人物だったが、池田の驕りと増上慢がよほど腹に据えかねたのだろう。三代会長引退の際に「院政はしかない」という約束をさせ、もしそれを破った場合は即刻、日蓮正宗から破門するというきびしい条件を申し渡したのである。池田にしてみれば破門されずにすんだだけでも首の皮一枚助かった格好だった。
「最高指導者は学会会長である」という創価学会の大原則からすれば、池田時代はここで終わりである。ところが、名誉会長に退いたわずか三ヵ月後、池田に睨みをきかせていた日達上人が急死した。生前の日達上人は池田を「俗物のきわみ」と毛嫌いしていたが、池田も会長辞任を迫られた時、「あんな老いぼれ死んでしまえ!」と側近たちにわめきちらし、日達上人の急逝の一報を開くとまるで小躍りするような表情でいつた。「死にやがったか」
そして、池田は新法主となった阿部日顕上人とは旧知の仲ということで、故・日達上人との約束を簡単に反古にし、あっという間に息を吹き返した。
池田は強引に創価学会の会則を変えた。池田会長時代は「終身」であった会長任期は「五年」と制限され、「創価学会はオレのもの」という自分の立場を守るために名誉会長という新しいポストを設けた。
この名誉会長職については創価学会会則に、「この会は、総務会の議決に基づき、名誉会長をおくことができる」創価学会会則第二章第七条)という一文を加えたのみ。
また、この名誉会長を遠出するのは総務会で、表向きは学会運営を司るのは責任役員会と呼ばれる最高幹部会とされている。この名誉会長の立場はなんの権限もない。理屈の上からは、責任役員会が池田追放を決定すれば池田大作と創価学会の縁は切れるわけである。
ところがそうはいかないのである。池田は三十年近い長期政権の間に学会上層部を完全に掌握し、巧妙に分割統治するシステムをつくり上げてきた。いい換えれば、どんな立派な規則や会則をつくっても、それはあくまで対外的なタテマエであって、池田独裁という内情は変えようがないわけである。
現に、いまの創価学会はこと池田大作一人に関しては内部構造的にチェック機能がまったく働かず、また用心深い池田の組織管理術によって責任役員会は有名無実化しているから、池田追放は事実上不可能なのである。
たとえば、池田名誉舎長の罷免権をもつとされる先の責任役員全のメンバーは秋谷栄之助現会長、森田一哉理事長など十人ほどで構成されているが、池田はその一人ひとりと別々のパイプを通じていて、幹部の造反に目を光らせている。しかも役員会の各メンバーが横の関係でつながることを極度に警戒して許さない。
そのため、役員全のメンバーたちは疑心暗鬼と恐怖がある。不用意に池田批判を口にするとほかの役員から池田へ筒抜けになるという心配である。だからつねにおたがい腹のさぐり合いばかりとなる。いくら池田が間違いをしでかしても、まともに意見さえいえないのはこのためである。
こうした権力構造の上に君臨するのが池田大作だ。創価学会や公明党が対外的にどう体面をとりつくろってみても、最終的な意志決定の権限はこの男にしかない、そんな権力構造がガッチリでき上がってしまっているのである。
ところが、池田大作名誉会長は実質的な最高責任者でありながら、昭和五十四年の会則変更によって社会的にはなんの責任も問われない立場を手中にしているのである。
つまりはこういうことだ。組織の構造上、いまの創価学会の意志決定や公明党の政策決定は最終的に池田大作の了解が必要とされる。池田の意志ですべてが決まるわけである。それでいて、社会から何か問題視された時は組織の規約上から現会長の秋谷なり公明党の矢野なりが矢面に立たされる。名誉会長という立場でいる限り、今後、何をやっても池田は社会的責任から免罪される。こんなに都合のいい立場はない。
その一方で、実質的な権限はがっしりと独占して離さず、池田一人が使う年間経費が百億円から二百億円。四十人以上もの個人秘書を手足のごとく使い、全国六百ヵ所を数える創価学会会館に自分専用の豪華な私部屋がある。(略)
それを黙って見ている学会首脳たちの大半は借家住まいで、生活権まで池田名誉会長に握られている。これが創価学会上層部の現状なのである。
まことに、組織の私物化もここに極まれり、というのほかはありません。それにしても口惜しいのは、池田大作名誉会長による組織の私物化が、日蓮大聖人の仏法を口実・背景としてなされていること、でありました。
しかして、宗門にあってもまた係累・派閥等の弊害著しく、日蓮大聖人の仏法を渡世の具として同様の私物化が横行すること、でありました。
官僚組織であれ・会社組織であれ・政治組織であれ・宗教組織であれ、組織の私物化こそ諸悪の温床であること、でありました。
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