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恐怖こそが特効薬
創価学会の最高権力者として君臨する池田大作が素顔をのぞかせるのは恐怖を感じた時だけである。過去のいくつかの出来事がそれを物語っている。
たとえば昭和三十二年の参議院選挙で悪質な戸別訪問が露見し、大阪府警に逮捕された時、この男はきびしい取り調べに遭ってたちまち全面供述した。
それまで威勢よく仏法は国法に勝る、創価学会は世の法律などおそれるな。警察権力などおそれるな。そう部下に檄を飛ばしていた本人が警察の取り調べ室ではガクッと元気を失い、係り官の前にひとたまりもなく屈服させられたのである。
この屈辱的な体験が池田大作を変えた。彼は極端なまでに国家権力に怯える男となった。
創価学会三代会長の権限から回りには平気で違法行為を命じながら、自分だけは絶対に危険を犯さないように立ち回ったのも、自分へ累が及ばないように細心の手を打ってきたのも、その臆病な素顔を知られたくなかったからである。
池田が極度に国会喚問をきらうのは、公の場でやり込められたあげく、自分の弱い正体を暴かれてしまうという心配のためである。
その恐怖から逃れるために権力へ執着した。他人は陥れても、自分だけは訴えられないだけの最高の権力をほしがった。昭和四十年前後の全盛期、池田は権力さえ持てば法律も理屈も押さえられるという稚拙な発想に取りつかれていた。その延長線上に生まれたのが政治権力を支配して日本を乗っ取るという非現実的な野心である。(略)
そしていま、池田本人でさえ信じていない「広宣流布のために」という美名のもとに、五百万人の学会員はあらゆる犠牲に甘んじている。
「広宣流布」つまり日蓮正宗の教えを世界中に広めて、明るく住みよい社会の建設をめざすというのは戸田二代会長の一大悲願であった。
ところが戸田会長の大きな夢もまた池田にとっては自分の野心を満足させるための口実でしかなかった。だから天下取りの野望が破れたのちの池田は器用に方向転換して学会私物化、すなわち世間の目にふれない宗教団体内部に君臨して、ひたすら私利私欲のまま巨大組織をむさぼり尽くす生き方を選んだのである。
創価学会における池田の生き方を冷静に観察して見れば、その事実はだれの目にも明らかである。宗教家を名乗りながら、池田大作の素顔は俗物臭にまみれた「ニセ仏」にすぎない。その俗物が組織をむさぼりつくした果てに、情熱的な宗教家だった戸田城聖二代会長がゼロから築き上げた人間集団を破滅へ導いている。
まことに、「極端なまでに国家権力に怯える男」とは、藤原氏の指摘・観察の通り、なのでありましょう。
そうした池田会長の俗物たる本質も野心も見抜けずして、宗内に<諌臣・争子>あるにもかかわらず、その野心家の財力と権威の前にひれ伏して、臆病者の自己保身のための御遺命破壊にあたら与同した宗門の無道心こそ、宗開両祖の御遺命・歴代先師のご願行を踏みにじったことでありました。
そして未だに、その御遺命破壊に改悔なきこと、でありました。
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