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日本乗っ取り計画
昭和四十年代なかば、正確には四十五年一月の七百五十万世帯達成まで創価学会の勢力拡大は破竹の勢いがつづいた。
世間の人は笑止千万と笑うだろうが、この時期までの池田大作は本気で「日本乗っ取り」を考えていた。
その計画は具体的なもので、昭和五十四年までに日本全国を日蓮正宗すなわち創価学会一色に変えてしまうという大目標を掲げており、その尖兵たることが折伏に精を出す学会員たちの大きな活力源となっていたのである。
たとえば四十年十月、総本山大石寺に正本堂を建立するとして、創価学会は全国一万六千会場でご供養を受けつけ、学会員八百万人から三百六十五億円の浄財が集まった。池田はこの正本堂の建立を広宣流布達成のための重要な通過地点と宣伝し、学会員は自分たちの大目標がまた一歩着実に前進したと信じていた。
また、池田はかなり早い時期から政界進出への野心を膨らませてもいた。三十七年一月、公明党の前身となる公明政治連盟(公政連)が発足し、同年四月にはのちの党機関紙『公明新聞』を発刊。
この時点で二年後の公明党結成(三十九年十一月)、四年後の衆議院進出(四十二年一月)のハラを固め、その青写真どおりに事態は進行していった。 (
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また、同じ時期に池田はこんな言葉を吐いてもいた。「私の言葉は学会内では憲法になる」 すでにこの時点で創価学会は池田独裁体制がほぼでき上がっていたから、自分の意志はそのまま別価学会の決定だ。そんな自信を暗にほのめかす池田の言葉だった。
昭和三十九年十一月、池田勇人内閣が総辞職し、後継首班に指名された佐藤栄作氏は第一次佐藤内閣を組閣。その直後の十一月十七日に公明党が誕生した。
翌四十年七月、第七回参院選では公明党候補十一人が当選。参議院での勢力は五議席増え合計二十議席となった。
この直後に行われた東京都議選では公明党候補二十三人が全員当遺。この時点で都議会の形勢は自民党三十人議席、社会党四十四議席。第三党へ躍進した公明党都議団は与野党伯仲の都議会でキャスティングボートを握り、東京都政に大きな影響をもつ存在へとのし上がった。
四十一年六月、学会世帯数は五古人十万世帯に伸びて、六百万世帯突破は時間の問題となり、その余勢をかって翌四十二年一月、初進出した衆院選では先にも書いたように二十五議席を獲得した。衆参両院で学会勢力は四十五名を数えるに至った。さらに四十四年十二月の衆院選では二十二議席増やして四十七議席と衆院勢力はほぼ倍増。
「学会を大きくしてがっちり固めたら、いよいよオレは政界入りする。その時には公明党委員長じゃなく公明党総裁に変えてやろうじゃないか」といった表現で、池田は学会幹部に自分の野心を巧妙にちらつかせたのもこの時期である。
私をはじめ池田の周りにいた当時の学会幹部ならこの言葉を開いたのは一度や二度ではなかった。
有頂天となった池田大作はおりにふれ、日本の宰相と創価学会会長を兼務するという野望を口に出した。まさしく政教一体、池田は「日本乗っ取り計画」の野心を大真面目で夢想していたのである。
池田を立てる北条さんなどは公明党の副委員長や書記長時代に「池田先生を総理にするのがわれわれの目標だ」とつねづね口にしていたものである。そして、それは幹部全員の思いでもあったような気がする。
とどまるところをしらぬ組織の躍進ぶりに一般学会員の土気はいやが上にも盛り上がり、学会全体に一種異様な興奮が充満していた。このまま倍々ゲームでいこう。そうすれば天下を取れるゾ。日本の人口の三分の一を折伏して創価学会員とし、あとの三分の一を学会・公明党のシンパとする。仏教でいう「合衛の三億」の夢が声高に語られ、その実現が目前に迫っているような幻想が芽生えていたのである。
( 略 )
創価学会が、正本堂建立御供養金の三百五十余億円を集め、その直後の正本堂建設委員会で池田会長が宗務総監を面罵したのが、昭和四十年のことでした。
池田会長の指示による「言論弾圧」が問題化したのが、昭和四十四年秋。池田会長は自らの国会証人喚問を激しく怖れ、脅えたことでした。国会証人喚問からなんとしても逃れようと、また政治進出 (日本乗っ取り計画)の妨げとなり選挙に不利となることから、一も二もなく「創価学会の唯一の大目的」と称してきた「国立戒壇」の御遺命を捨去するに至りました。
そして、浅井会長がついに御遺命守護に立ち、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を宗門並びに創価学会首脳に提出したのが、昭和四十五年三月でした。
この昭和四十年から四十五年当時の、創価学会の政界進出と機を一にした「倍々ゲーム」の「一種異様な興奮」は、宗門をもすっかり呑み込んでいたことでした。宗門僧俗こぞって「誑惑の大合唱」を演じた背景・状況が、この池田会長の側近ナンバーワンの記述から、うかがい知ることができます。
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