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日蓮正宗創価学会批判を破す
( 創価学会教学部編集 )
(十一)本門の本尊のみで体(事行)と場所(戒壇)なしという問答
--- 三秘を論ずる頭なし ---
日蓮大聖人の宗旨は、いうまでもなく三大秘法であられる。三大秘法とは、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目である。
三大秘法の開合をのべれば、摂すれば一大秘法すなわち本門の本尊となり、開けば六大秘法となり、さらに八万宝蔵の一切経となる。六大秘法とは、本門の本尊に人と法あり、本門の戒壇(本門の本尊のおわす処)に義と事があり、本門の題目(信心口唱)に信と行がある。学会員なら、だれでも知っている。
ところが、邪宗日蓮宗では、つい最近まで、この三大秘法がどういうものか、少しもわからず、はなはだしいのは、三大秘法抄までも偽書呼ばわりしてきたのである。たしかに、大聖人を菩薩としか思えず、大聖人の法門をも、天台宗と同じだくらいにしか老えられなかった師敵対の五老僧や、その汚濁した流れを汲む現在の邪宗身延派、池上派、仏立宗等の末輩たちの低級な頭では、不審に思うのも無理はあるまい。
じつに、正しく三大秘法を七百年来護持しきたったのは、大聖人いらい唯一の相伝家、日蓮正宗以外にはない。明治になってから、このような過去の歴史も知らず、日蓮正宗の正義を盗みとって、三大秘法などとしたり顔で喋々する身延派や、仏立宗の輩の厚顔無恥には、じつにあきれざるをえない。
ここで、田中日広は一秘即三秘だから、本門戒壇は本尊に摂せられる。戒壇を別口に扱う必要なく、富士戒壇説は愚論で、もし本門戒壇を建立するなら、富士にあらずして朗像二師遺命の地の京都宥清寺だ、というじつにあきれはてた痴説を並べている。
いったい、これでは、仏立宗では事の戒壇、国立の戒檀の建立を必要とするのか、必要としないのか。「もし建立するなら」というのでは、必要とはしないのだろう。三大秘法抄の大聖人の御命令に背くが どうか。まして、国立戒壇建立の大事を、朗像ごとき師敵対僧に、大聖人は御遣命になるはずもないし、なられてもいない。
じつに、国立戒壇の建立こそは、第二祖日興上人にのみ御遺命になったのである。そして、その場所も、富士山と明白に御指示になっている。また、あらゆる正史料から、日蓮正宗のみが、大聖人の御遺命をうけて、富士山に事の戒壇(国立)を建立しようと、必死の努力を続けてきたことは明白になった。近ごろは、田中智学門流でさえも、囀(さえず)っているではないか。
いままで、受持即持戒だから国立戒壇はいらぬ、と唱えてきた仏立宗などが、今度は、京都に戒檀を建立するなどといっている。京都宥清寺なんて、だれがいい出Lたのか知らぬが、宥清寺なぞは、悪魔外道のすみ家でこそあれ、潮の満干がなくとも、天地が逆になろうとも、戒壇場になるべき理はないのである。
仏立宗の輩は勝手に、本門の名(本尊)だとか、体(事行)だとか、義理に反した語を組み合わせて平然としているが、これこそ、師敵対、堕地獄の徒たるの現証である。三大秘法が邪宗にわかるはずがない。
「じつに、国立戒壇の建立こそは、第二祖日興上人にのみ御遺命になった」と言い、「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大白蓮華五十九号)と言って来た創価学会でしたが、後に“正本堂が御遺命の「事の戒壇」だから国立戒壇はいらぬ”と仏立宗の轍を踏んだことでした。
そしてまた 「一秘即三秘だから、本門戒壇は本尊に摂せられる」 故に、正本堂こそ本門事の戒壇であるという
「じつにあきれはてた痴説を」後に述べたのが、創価学会の御遺命破壊に迎合した細井管長でありました。
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