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『 創価学会の歴史と確信 』 講義
初代会長牧口先生の絶対の確信 --- 『日蓮正宗をつぶしても国家諌暁をして、日本民衆を救い、宗祖の志をつがなくてはならぬ』 --- この厳然たる精神が学会精神です。
宗教団体として、これほどの弾圧をこうむったところはないのではありませんか。
大御本尊様に、日蓮大聖人様に南無する。牧口先生の絶対の確信…。南無とは帰命、おまかせ申し上げるということです。また、南無とは敬う義なり、従う義なりともいわれます。
神札を拝んだほうが、弾圧をうけなくていいだろうなどと、自分の考えを入れたのでは、南無ではありません。これはハムだ。(略)
このあいだも、どのくらい学会がふえれば戒壇建立になるのかと聞かれたのですが、それはちょっと私にもわかりません。いずれにしても、もうじき大講堂の前に鉄筋でスマートなりっぱな宿坊ができます。そして、会長先生の遺言である大客殿がたちます。
さらに、御法主上人様の深い御構想で、やがては正本堂と、どういう名前になるかわかりませんが……そこへ奉安殿の御本尊様がおでましになるのです。そのときが広宣流布の姿、儀式なのです。そんなに遠くないような気もいたしますが、仏智はかりがたしです。それこそ、もうひとふんばり、ふたふんばりですね。
『未だ広宣流布せざる間は、身命を捨て随力弘通を致す可き事』(日興遺誡置文」
なにも夜おそくまでやれとか、からだに無理してまでもというのではなく、広宣流布にひたぶるに精進する、これが学会精神であると思います。(略)
とくに、三祖日目上人様は国家諌暁四十何度、七十歳をこえた御老齢をもって、その途中、垂井で御遷化あそぼされた不自惜身命の姿を学会精神として、進みきっていかなければならないというのが先生の御決意でした。
その当時、まだ自覚がなく学会を理解しない僧侶に対しては断固戒め、清らかに日蓮正宗教団を守り、僧俗一致で広宣流布に進んで、宗開両祖の御恩に報いなければならないというのが会長先生の精神なのです。
『戸田の生命のつづく取り、本山に忠誠を誓う』、先生の本山に対する忠誠は絶対のものです。それが学会精神です。私たちもこの教えを奉じて、遠く東洋三国まで本尊流布をしていくことを誓おうではありませんか。(略)
(当時、総務)
昭和三十四年八月九日
夏期講習会
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
この頃から、「正本堂」のへの言及が始まります。その名をちらっと出しつつ、「どういう名前になるかわかりませんが……」と、微妙な言い回しをしています。奉安殿落慶からわずか、四年後のことでありました。
そして「そこへ奉安殿の御本尊様がおでましになる」と言い、「そのときが広宣流布の姿、儀式なのです」と。
六十四代日昇上人の「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿慶讃文)の凛乎たるご宣言、いまだ記憶に新しいときでありました。
「そんなに遠くないような気もいたしますが、仏智はかりがたしです。それこそ、もうひとふんばり、ふたふんばりですね」を聞いて、当時の聴衆は誰しも「国立戒壇建立」を念頭に浮かべ、それが「広宣流布の姿、儀式」と了解したことでありましょう。
池田総務自身、この年の一月の発言では、「国立戒壇建立の際には、大御本尊様が奉安殿より正本堂へお出ましになることは必定と思う」と、述べていたことでした。
それにしても、「本山に対する忠誠は絶対」で「それが学会精神」であったはずでしたが、それから十年もたたないうちに、一方で「このまま“国立戒壇”を言っていると憲法違反で、国の弾圧を受ける」と宗門に泣きつき、他方では「ここまできて、いまさら正本堂が事の戒壇でない、などと言ったら、正本堂御供養金の返還さわぎがおこり、宗門までつぶれてしまう」と宗門を脅し、ついに自己保身と公明党の選挙の都合のために、宗門をして御遺命歪曲を為さしめたことでありました。
(
平成十三年十二月十八日、櫻川
記 )
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