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創価学会の妙信講対策
さて、この東京都宗務課に対する回答文が、日蓮正宗内に大きな波紋を呼んだ。
従来、「日本国中に日蓮大聖人の教えが広まり、時の権力者が帰依したとき国家意思によって戒壇を建立する、そのときが広宣流布である」という教義は、日蓮正宗の教義の中で最重要なものであった。
キリスト教における″神の国″にも匹敵する思想である。それを根本から変更するのである。宗内の意思統一をはかることなくしてはできない。
まず僧侶たちに対する根まわしは、時局懇談会という形で僧侶を東京都内の寺に集めて、宗務院役員会で創価学会幹部が出席して行なわれた。
その席で、いろいろ質疑応答はあったが、学会側の「このまま“国立戒壇”を言っていると憲法違反で、国の弾圧を受ける」という説得に押し切られてしまった。しかし、妙信講だけは、しっこく宗務院と創価学会にくいさがった。
創価学会から森田、秋谷両副会長らが出て、東京都宗務課に提出した回答書のことは伏せたまま、妙信講の浅井父子と話し合い、「現時点において、正本堂を“事の戒壇”と断定しない」ということで妥協した。
しかし、その後も、創価学会側では、「正本堂は民衆立の戒壇であり、その完成は、日蓮大聖人御遺命の事の戒壇の建立である」という趣旨の表現を改めなかった。そのため正本堂落慶間近の昭和四十七年初頭より、再び妙信講が日蓮正宗宗務院と創価学会に対し、行動を開始したのであった。
これに対する創価学会側の対応は、宗務院をだきこみ、「正本堂は、事の戒壇である」との教義上の裁定を出させたうえで妙信講を宗外に排除してしまうという作戦に出た。
本来、日蓮正宗側は、創価学会の数と力にものを言わせる威圧的なやり方や、既成事実を次次とつくって、なしくずしに伝統教義を曲げていくやり方を快く思っていなかった。蔭で妙信講の肩を持つ僧侶も少なくなかった。
いまは、創価学会の傀儡と言われる(阿部)現御法主上人も、教学部長時代、浅井甚兵衛、昭衛父子宅を訪れて、「あなたたちのおかげで、日蓮正宗の正義は守れた」と感謝の意を表したことがあったと聞いている。
こうした、反学会的気風を敏感に察知した池田大作氏と創価学会は、必死になって宗務院を固めた。なかば威圧と、理論闘争と、そして、「ここまできて、いまさら正本堂が事の戒壇でない、などと言ったら、正本堂御供養金の返還さわぎがおこり、宗門までつぶれてしまう」という脅しで、創価学会への同調を迫った。
私も弁護士という立場で会議に出席し、早瀬総監、阿部教学部長ら宗務員役僧に対し、「いま、正本堂の意義を“御遺命の戒壇”とかかわりなし、としてしまったら、正本堂の御供養金を返還せよ、という要求や訴訟が全国的におこり、創価学会も、また日蓮正宗もつぶれてしまう。詐欺で訴えられる」と強調した。
そして、ついに押し切り、四月二十八日、時の御法主上人より、「正本堂は、一期弘法抄、三大秘法抄の意義をふくむ現時における事の戒壇なり。広宣流布の暁には、本門寺の戒壇堂となるべき大殿堂なり」との訓諭(法主が発令する、宗内最高形式の布令)を出させることに成功した。
つまり、正本堂は日蓮大聖人が末法の弟子たちに御遣命としてのこした事の戒壇堂にあたるべき建物である。しかし、まだ、昭和四十七年当時には、広宜流布の完結というべき状態にないので、将来、広宣流布達成のときに“事の戒壇”と正式に意義づけられる、という意味である。
広宜流布のそのときになってはじめて、大御本尊は一般の人々にも公開されるが、いまはまだ信者だけに内拝を許す、というわけである。ある人はこれを、「銅像をつくり、除幕式を迎えていない状態である」と表現した。
これとほとんど時を同じくして、阿部教学部長(現法主)の名で、「国立戒壇諭の誤りを破す」という論文が出された。内容は、国立戒壇というのは日蓮大聖人の本来の教義ではない。明治時代に、国柱会(日蓮系宗教団体)の影響でそういう考え方が出てきたが、いまそれに固執するのは誤りである。正本堂こそ、民衆立の“事の戒壇”であり、それが将来御遣命の戒壇となって差しつかえない、という趣旨であった。
大変失礼な話であるが、この論文は九割は原島嵩氏以下、特別幹部のメンバー(池田ゴーストライター集団)と、山崎師団の弁護士、検事、修習生らで書いたものである。のこりの一割を、私たちの示唆に従って阿部教学部長が書いた。現法主にも、ゴーストライターがいたのである。
とにかく妙信講が強気に出たことは、すべて裏目に出る結果となった。
創価学会側は確信犯として、「国家意思によって戒壇を建立」という教義は、「日蓮正宗の教義の中で最重要なもの」であり、「それを根本から変更する」のだという了解・認識であったことがここに窺えます。
それに頑強に反対する妙信講を「宗外に排除」する方針に対し、「創価学会の数と力にものを言わせる威圧的なやり方や、既成事実を次次とつくって、なしくずしに伝統教義を曲げていくやり方を快く思っていなかった」宗内の様子や、「蔭で妙信講の肩を持つ僧侶も少なくなかった」ことが、妙信講対策の当事者・総責任者の口から語られています。
そして宗門に対し威圧と理論闘争と、「正本堂御供養金の返還さわぎがおこり、宗門までつぶれてしまう」という脅しで創価学会への同調を迫り、ついに訓諭を出させることに成功した..と。
また、顕正会が「悪書」と呼ぶ「国立戒壇諭の誤りについて」は、その九割が原島嵩元教学部長や、山崎師団の弁護士・検事等の手によって書かれたものであったという裏の事情が、ここに知られます。
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