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闇の帝王、池田大作をあばく
序章 なぜ私は真相を明かすのか
創価学会は、池田大作氏を中心にそのツルの一声ですべてが動いている組織である。その池田氏の側近として、私は、この十年間、いつも側近くにいたにもかかわらず、一般の会員に知られることはほとんどなかった。
私が、総務に任命されたときも、辞令は、聖教新聞に発表されなかったし、参事に任命されたときもそうだった。
池田氏に、新聞記者のカメラが向けられるとき、私は、すばやく身をひいて、ファインダーの外に出た。ひとことでいえは、“黒子”に徹したのである。
だが、私がこの十年間、創価学会本部の奥深くで果たしてきた役割については、“知る人ぞ知る”であった。池田氏は、冗談まじりにではあるが、「私は太陽の帝王、山友(創価学会には山崎姓の最高幹部が多いので、区別するため、私は“山友”ないし“友さん”とよばれた)は、“闇の帝王”」と云ったことがある。
地方に同行するような時も、私は、北条浩前会長と同じ部屋を与えられ、食事のときは、池田氏と同じテーブルにつくことも多かった。
たまたま、渉外的な仕事にたずさわったとき、私と接した外部の人々(もちろんほんの少数であるが)には、池田氏が、私のことを「私(池田氏)のふところ刀です。キッシンジャーです。彼の云うことは、私の云うことと考えて下さい」と紹介していた。
私の仕事は、池田氏や北条氏の側にいて、創価学会の全体に目をとおし、アドバイスやチェックをすること、情報師団を統括して、外敵とわたり合うこと、そして、池田氏をはじめ、幹部や組織のスキャンダルや事件を、手ぎわよくモミ消すことであった。
こうした立場と仕事の人間が、陽の当たるところに出て来て、知っていることを公表する破目になってしまった。(略)
池田氏が、日蓮正宗を乗っとって、みずから“本仏”になろうとしていたことは、まぎれもない事実であり、これは、私が信奉する日蓮正宗の教義に根本約に違背していた。
また、池田氏のとほうもない野望と支配欲を満足させることに協力することは、日本の社会にとっても、その犠牲となる人々のためにも、正しくない選択であると、私には思えた。
私も、本来、勇気にあふれる人間ではない。並の人間が、それなりに努力してきただけのことだと、充分に自覚している。
最初、おそるおそる池田氏に直言することからはじめて、やがて“近代化”という大義名分をかかげての抵抗もせい一杯にやってみた。池田氏の前では、それも、正に、蟷螂の斧にすぎないとわかり、一方で、日蓮正宗第六十六世御法主日達上人に、日蓮正宗の危急存亡を救ってほしいとたのまれたものの、私にとり得る手段としては、差し当り、“面従腹背”しかなかったことは、自分としては止むを得なかったことと思っている。(略)
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
本書のタイトルの「闇の帝王、池田大作をあばく」をみても、山崎元顧問弁護士は「闇の帝王」という呼ばれ方が、まんざら嫌いでもなかったのでありましょう。
さて、そうした影の“黒子”として・池田会長の腹心として、スキャンダルや事件のモミ消しや数々の陰湿な謀略工作をしてきた立場ながら、「なぜ私は真相を明かすのか」などといざ「陽の当たるところ」に自ら出たとき、自分の行動を正当化することだけは忘れないことでありました。
ここで未だ、山崎元顧問弁護士が語っている「真相」は、自分に都合のイイ部分だけの「真相」でありました。そしてまだまだ語っていない重大な「真相」が、山ほどあることでありました。
御遺命守護の赤誠を貫く妙信講に対し、どれほど非情にして卑劣、非常識にして反社会的な謀略工作をしたことであったのか。昭和四十五年から五十二年にかけて、山崎元顧問弁護士自身が御遺命をねじ曲げるため、どのように宗門に圧力をかけ、無理やりにねじ伏せ・従わせたことであったのか。
その「真相」を歴史にとどめることによってしか、その罪はつぐなえないことでありましょう。
(
平成十四年二月二十六日、櫻川 記 )
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