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闇の帝王、池田大作をあばく
池田大作と私
池田大作氏の会長勇退が正式に発表された昭和五十四年四月二十四日の前後一週間、私は毎日、池田氏と会い、打合わせ、そして行動した。
今、数えてみると、四月は十四回池田氏と会っている。これほど密着した行動をとったことは、私といえど過去三回しかない。正本堂落慶のとき(昭和四十七年)、創共協定発表のとき(昭和五十年、このときは一緒にハワイにいた)、そして、四十九年の宗門問題のころ。(略)
それに、このころ既に池田氏とその周辺は「宗門対策とは即ち山友対策だ」と考えていたらしい。
私が日達上人に同詞していたこと、即ち、池田氏から見れば、“裏切り者”であったのにもかかわらず、上人にことのほか信頼され、その参謀格で、上人を自由に動かし得ると考えていたようだ。
池田氏はそれを利用して、逆に私をあやつることによって、日達上人を動かそうと考えたらしい。まさに、虚々実々である。
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
ここでは昭和五十四年四月の、恒例の五月三日の創価学会本部総会を目前にして、しかもそこでは「池田会長の会長辞任」を正式発表するという時期において、山崎元顧問弁護士が池田会長とどのような関係にあったかということ、が語られています。
創価学会・池田会長にとってきわめて重要かつ困難な三度の事態の時、このように山崎元顧問弁護士が頻繁に呼ばれて池田会長と会い意見交換して来たということは、まさしく彼が主席補佐官として重用されていたことを十二分に物語っています。
昭和四十七年の正本堂落慶のときとは、「宮本議長宅電話盗聴事件の東京地裁判決」でも認定されたように、山崎元顧問弁護士が妙信講との「論争」を有利に運ぶため、常泉寺における双方の代表の論判を盗聴した時期でありました。
そのときもやはり、池田会長と密着した行動をとったということ・頻繁に池田会長と会い打合せをしていたということ、すなわち池田会長自身が承認・関与した盗聴工作であったという構図が、こうして透けて見えてくるのでした。
そしてさらに、「四十九年の宗門問題のころ」というのはもちろん、妙信講が創価学会に対し期限を切って政府からの「国立戒壇への照会」に対する欺瞞回答の撤回を迫った時期でありました。そこで宗門はにわかに宗制・宗規を変更し、講中解散の条項を設けたのでした。
ついに昭和四十九年八月十二日 妙信講に解散処分が下り、「日蓮正宗管長・細井日達」の名で発せられたその宣告書には「一、主文 講中解散に処する 右妙信講は数年来、『国立戒壇の名称を使用しない』旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付『訓諭』に対して異議を唱え ・・・ 」とあったことでありました。
妙信講を解散・宗門追放に追い込むというシナリオを描いて宗門への根回しを行い、そうした工作の司令塔として暗躍したのが他ならぬ山崎元顧問弁護士であったことが、この記述からうかがえることでありました。そしてこのとき山崎元顧問弁護士は、妙信講に対して情報師団の総力をあげ、「電話盗聴・見張り・宣伝カーの破壊工作・スパイの潜入」等、組織壊滅を目的とした卑劣な謀略の限りを尽くしたのでしたが、これもまた池田会長が承認・了解した破壊工作であったことが、こうして知られます。
さてまたしても..歴史に「もし」はありえないことでしたが、妙信講はかの厳しい「試練と忍従」を経験し、いわれなき辛酸を味わって来た唯一の講中でありました。宗門僧俗の堕落の様相を横目に、宗内に在ってひとり仏法守護・護惜建立のため、「韓信の股くぐり」をもいとわず侮辱にもはずかしめにも耐え、ひたすら「猊座の尊厳」と「御遺命の大事」をお護りすることを念願する講中でありました。
やがて昭和四十九年八月十二日、妙信講は自ら求め願ったともいえる「解散処分」を、宗門より受けたことでありました。わたしも、それは「かくすれば・かくなるものと知りながら」の状況における、「仏法中怨」の責め・「ゆるき行者よ」との大聖人・日興上人からのお叱りを免るる、唯一の方途・路線であることと了解してきたことでした。
ここで、しばし思いをめぐらすならば、それは池田会長・山崎元顧問弁護士の思う壺だったことでした。妙信講の宗門追放・解散処分があったからこそ、池田会長が後顧の憂いなく増長して、いわゆる五十二年路線なる宗門支配に踏み込み、そこでかえって宗門の反発を買ってその後の「修羅と悪竜の合戦」に至ったことが、その後の歴史でありました。
仮に(もし)、妙信講が宗内に踏みとどまっていたら、どうだったでしょうか。それでもいずれ池田会長は、その念願たる宗門支配に乗り出したことでありましょう。
もし妙信講がこらえるべきはこらえ・引くべきは引いて、宗内にあくまでも留まっていたならば、その後の宗門の歴史はまったく違った展開となっていたことでしょう。妙信講は宗内にあって、創価学会に対峙する重要な位置を占めたことは、間違いのないことでありましょう。
もちろんこんな想像はあくまでも後講釈に過ぎないことですが、また歴史を振り返り・学ぶことがあってもよいことだろうと思うのでした。
(
平成十四年二月二十七日、櫻川 記 )
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