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闇の帝王、池田大作をあばく
報復と抹殺の号令
(略) 私に第三者的立場で学会をたしなめる役割を与えておきながら、学会への身びいきを要求し、あまつさえ陰で私を敵呼ばわりをすることによって、自分の失敗を意そうとした池田氏の行為が、私を苦しい立場に追いこんだ。
こうした中で、私の池田氏に対する不信が次第につのって行くのを、自分自身、どうしようもなかった。私の立場がこうした中で目立つことは、学会内における自分の立場を一段と悪くすることは目に見えていた。しかし、今さらそんなことはいえない。
「私は日達上人にはどこまでも御奉公いたします。行きがかり上、最後まで責任を負わなくてはなりません。しかし、猊下が隠居なさいますときは、私も解放していただかなけれは困ります」 そう申し上げるのが精一杯だった。
猊下は、「秋には誰かに(法主の座を)ゆずって楽になりたい」と、四月以後、何回かもらしておられた。私も、長くて秋までの辛抱だと思ったのである。だから池田氏にも八月いっぱいおとなしくしていてくれと頼んだのである。
だが、運命は、私に対してきびしい試練を課した。昭和五十四年七月二十一日、日達上人が突然御遷化されてしまった。
私に対する、池田氏の報復と抹殺作業の公然たる号令が、その翌日に出た。それも八月末までに、日顕上人と用意周到に打ち合わせた上で、九月に入って一挙に実行に移された。
まず日顕上人が、あらゆる機会に、私を名指しで“破和合僧の張本人”と指弾することからはじめられた。(略)
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
昭和五十四年五月三日の、池田会長の会長職と法華講総講頭辞任がなった後、細井管長が、「秋には誰かに(法主の座を)ゆずって楽になりたい」と考えていたことは、おそらくそうであったことなのでしょう。
しかし臨終思うようにならずして急逝、たちまち山崎元顧問弁護士は孤立無援となって、創価学会・池田名誉会長からも宗門・阿部管長からも、“破和合僧の張本人”と指弾されることになったのでした。
(
平成十四年三月二日、櫻川 記 )
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