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闇の帝王、池田大作をあばく
「他の世界では生きられぬ」
(略)いかなる懐柔にものるつもりはなかった。とにかく、日達上人の残された路線を護る役目が、私には課せられていた。そのために、勧進帳だって、忠臣蔵の大石内蔵助だって演じょう。
たとえ、相伝をいつわって登座した方でも、日達上人の御遺志をつぐ方なら、従いお護りすることに、やぶさかではないが、そうでなければ、真実を明かし、戦わなくてはならぬ時が来るに違いないと、私は心に決めていたのである。
池田氏は、私のこの決意を、見抜いたに違いない。そして、私の態度に激怒し、狂気の如く、私の追いおとしに狂奔した。日顕上人の口をかりて、私に対する非難中傷のかぎりをあびせた。またいろいろな陰謀に熱中した。
その都度、私の手痛い反撃にあい、逆に追いつめられていった。それには原島嵩氏が独り決意して立ち上った状況や、活動家僧侶達の文書による暴露戦術も大きく影響したし、内藤氏をはじめマスコミのはげしい攻撃も大きく私に有利に働いた。
同年十一月未、池田氏は、進退極まって、私を壊柔するべく、私と会った。私は、仕事の整理をして、それから戦うつもりだった。
「最後のわがままを言いに来ました」と切り出したとき、池田氏は、「最高のわがままを言いに来たんだな」と切りかえした。この時ばかりは、私が負けた。
「兵庫の墓園の件は、北条さんが責任をもってやる。シーホースの件は、学会で面倒みる。今までのことは、俺も悪かった。きれいに水に流して、仲良くやろう。日達上人の路線はまもる。しかし、俺もまだ五十四歳だ。他の世界では生きられない。俺の立場をつくってくれ」
池田氏の大風呂敷に包みこまれて、私は池田復権に一時手をかすこととなった。しかし、池田氏の再三にわたる、手のひらをかえすような行為のため動きがとれなくなって行った。
原島氏や活動家僧侶ともミゾが生じた。あげくの果てに、池田氏が、私の孤立をみすましてかつての私の部下達をつかって、私の唯一の失敗であり、アキレス腱であった、シーホースをねらいすまして打った大仕掛けに、一発逆転をねらった大勝負に、ほんろうされる結果となってしまったのである。(略)
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
山崎元顧問弁護士は、池田名誉会長の意を受けた阿部管長から“破和合僧の張本人”と指弾されていたこともあり、この昭和五十四年当時は
「たとえ、相伝をいつわって登座した方でも」や「真実を明かし、戦わなくてはならぬ」と、阿部管長とは距離を置いていたことでした。
さて、池田名誉会長は 「他の世界では生きられない。俺の立場をつくってくれ」と、山崎元顧問弁護士に泣きついてみせて、裏で卑劣な追い落としを画策したことでした。山崎元顧問弁護士は、さんざんそうした卑劣な謀略を妙信講等にしてきたのですから、まさしく還着於本人であって同情の余地はありません。
しかして、池田名誉会長の 「他の世界では生きられない」とは、こういうことでありました。もちろん、日本最大の宗教教団(ビジネス)に君臨し得る能力を持った人ですから、 「他の世界では生きられない」などということはありません。要は、 「他の世界」ではこんなに「うまい汁」を「おいしい思い」を味わえないということ、でありました。
そしてそうした事情は、御遺命歪曲を見て見ぬふりをした宗門の職業僧侶達とても、同様であったことでありましょう。「他の世界では生きられない」とは、まさに職業僧侶達でありました。
(
平成十四年三月三日、櫻川 記 )
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