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闇の帝王、池田大作をあばく
許されない社会的不正
昭和五十五年十一月十五日、創価学会五十周年記念パーティが、創価大学で開かれた。
会場で、池田氏が新聞記者の質問に対し、「原島、山崎らの告発は次元の低いことだ。いちいち気にしていては、民衆の王者になれませんよ」という趣旨の発言をした旨報道された。
盗聴も、替玉投票も、にせ本尊作りも、いずれもすべて、池田氏自身が指図してやらせたり、やったりしたことである。自分のしたことを“次元の低いこと”であったといい、”気にしない気にしない”というのは、まことに池田氏らしい無責任な、自己矛盾にみちた発言である。
自分に責任のある、次元の低い社会不正を、ひとごとみたいにきめつけて、自分自身を切っていることに気がつかない。
池田氏は、学会の中では、いつも別格であり、人のことばかりあれこれいって、自分のことをいわれることがない立場である。たしか、言論問題のときの謝罪も“自分と関係のない学会の悪しき体質”を、池田氏がわびたような形になっていたと記憶している。
みずから行った行為を、”次元が低い”とあざわらうことは、鏡にうつった自分の姿を、“みにくい”とあざわらうようなものだ。油をとられるガマだって鏡にうつったおのれの姿のみにくさを恥じて脂汗を流すというのに、”謙虚入間”を自称する池田氏は、これほど恥知らずの人間なのである。
相伝を詐称するニセ法主をつくり、これとぐるになって日蓮正宗を盗みとろうとするほどの人だから、羞恥心など、どこかに、とっくの昔に投げ捨てていても不思議ではない。
それにしても“民衆の王者”とは、まことに厚顔な表現である。貧乏で、純真な会員から巨額な金をしぼりとり、全国各地にぜいたく三昧な専用施設をつくって君臨している姿は、王は王でも魔王ではなかろうか。
池田氏のもとで行われている社会的不正がどれほど悪質なものであるか。(略)
こうした言語道断な不正行為が、警視庁予算をにぎっている東京都議会で、公明党がキャステイングボートをにぎっているが故に、大目にみられたり、モミ消されたりしているのである。民主主義の世の中にこんなことが許されてよいのだろうか。
また、読者の皆様の電話や家庭に盗聴器がとりつけられて私生活や仕事が、すべて他人に聞かれていることを想像していただきたい。いずれも、まことに容易ならぬ社会悪ではなかろうか。
私自身、こうしたことに深くかかわって来たことに対し、心から反省し、つぐないをしなくてはならぬと思っている。決して、”次元が低いから無視して開き直れ”などと言う気にはなれないのである。(略)
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
山崎元顧問弁護士が語る、池田名誉会長の「無責任」な「自己矛盾」にみちた発言で「自分に責任のある社会不正」を「ひとごとみたい」にきめつけて、「自分自身を切っている」ことに気がつかないという言葉は、わたしから見れば山崎元顧問弁護士ご自身にも、そっくり当てはまることでありました。
当時は、「相伝を詐称するニセ法主」云々と言っていたことでしたが、今日では阿部管長・宗門サイドの「闇の帝王」気取り。どうやら「羞恥心」などとうに、投げ捨てていることでありましょう。
山崎元顧問弁護士の、「私自身、こうしたことに深くかかわって来たことに対し、心から反省し、つぐないをしなくてはならぬと思っている」の言やよし、としましょう。
池田会長の承認・了解のもと、妙信講に対して情報師団の総力をあげて、「電話盗聴・見張り・宣伝カーの破壊工作・スパイの潜入」等、講中の組織壊滅を目的とした卑劣な謀略の限りを尽くしたことは、自らその著書であきらかにしたことでした。では山崎元顧問弁護士は、その卑劣な謀略の相手方・当事者であった妙信講・顕正会に対し、「まことに容易ならぬ社会悪」を責任者として自ら実行したことについて、「心から反省」や「つぐない」の意志を表明したことが、かつてあったでしょうか。寡聞にしてわたしは、聞いたことがありません。
つまり、「心から反省し、つぐないをしなくてはならぬと思っている」というこの著書における発言とても、上辺の言葉のみでその実はさらさらないのでありました。
山崎元顧問弁護士また池田名誉会長と同類にして、むしろ「これほど恥知らずの人間」の部類に入りもし、「無責任」にして「自分に責任のある」「社会不正を」「ひとごとみたい」に語るばかりでありました。
(
平成十四年三月四日、櫻川 記 )
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